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061.素材とものを作る関係

ある日のインスタでninow_textile を目にした私は自分のブランド名に似ているので、
ぽっちと。
何これ、1目でninowの世界に引き込まれたのです。
私のブランド名はninono,
’二宮の’という意味、ninowは、’担う’という意味があるそうです。
日本の繊維産地で活躍するテキスタイルデザイナーの展覧会や、ninow代表の司会者の小島さん
も、自然で感じが良くて、説明もとてもわかりやすく、皆さまが説明される布がとても素敵で、
魅力的でした。
そして若さがいっぱいでした。日本の産地もすごい、勿論量産しない私には近づけそうにない
ところです。
染色の仕事をする私には、素材が1番の決め手になります。
私はいつも布を探しています。こういう布を探している、良い布と出会いたい。
八王子のみやしんさんの布は、色をのせるとそれだけで雰囲気がぱーっとでてくるのです。
今は生産されていません。昔は大阪三彩には、片野元彦さんが使われた茶棉綿がありました。
当時、岩立フォークミュージアムが岩立バザールだった時、輸入のインド綿などカディや、
シルクなどがすぐに手に入ったのです。
今はジャパンクリエーションなどで、機屋さんとお話しして、糸を決めて織っていただくのです
が、頼んだのに忘れられていたり、違うものがきたりで散々なこともありました。
芹澤先生も柚木先生も、良い布に出会うとそれだけで模様が浮かんでくるのだそうです。
私は模様まではいきませんが、良い布に出会うと意欲が湧きます。

作り手は素材にこだわる。
足利にあるファクトリーというブランドは、ファミリーで分担してお洋服を生産していらっしゃ
います。
お兄様とお母様が、素材の買い付けにモンゴルに行きヤクの原毛を仕入れ、ウランバートルに
工場を作り糸にして日本に送り、足利で縫製をして編機で編みます。
そのヤクのセーターは軽くて暖かい最高のセーターです。
お洋服は、綿なら棉、麻なら麻の原産国、ベルギーなどに行って綿花を仕入れ、その後糸にして
足利の機屋さんで織っているそうです。
パターンはパリで女子美を卒業した妹さんがデザインとともに担当して、足利の自分の工場で
縫製しています。染色はお兄さまが製品染めを担当するなど役割分担されています。
ファクトリーファミリーのストーリーはさらにお洋服を魅力にしています。

ものを作るということを丁寧に楽しんでいる、勿論楽しみばかりではないと
思いますが、ninow_textileもfactoryも本当にすごいなーと思ってしまいます。

私はものづくりをする人間として、素材に感謝して楽しんで仕事をしたいと思っています。

素材も追いかけるのですが、個人的に素晴らしいなと思うテキスタイルの若手の作家さんをご紹介します。

向井詩織さん TDAでもご紹介がありましたが、インドのブロックプリントの
       工場で研鑽をつんでいらっしゃる素晴らしい作家さんです。
       作品はものすごく魅力的で、そばにあると、制作の力をもらえる
       ような布です。

ミムリ    沖縄でバックから服、なんでも作っていて、プリントは元気がでる、
       ワクワクするプリントです。ホテルのインテリア、本の装丁にも使われてます。

KEIKO NISHIYAMA  お洋服を制作していらっしゃいます。
         テキスタイルの柄がどこにもない、素晴らしい個性のプリント
         で、お洋服のデザインも素敵です。靴下、ハンカチ、などにも使われています。

funatabi            お洋服を作っていらっしゃいます。
       今インスタで流行っているエコプリントを彼女のセンスで、魅力的
       に表現されています。すみ染めのお洋服もあります。

FUJII CHIAKI   おおらかなデザイン、あたたかな彼女の人柄溢れる作品で、人気の高い
       作家さんです。布ばかりでなく紙の仕事もされています。

記:二宮とみ 

060.青花紙のこと

今年で6回目を迎えた”SQUARE染textile6”展に染織工芸材料店の営業マンがもっぱらの領域を超えて出品参加させて頂けた事、この場をお借りして関係の皆々様には改めて御礼申し上げます。

染織材料販売の立場から染色作品で何かを表現し、伝える事、昨年度の第5回では絹とほぼ同じ染色条件、酸性染料や天然染料で染まる人工皮革(表面:可染Pu,裏面:Ny)を捺染、刷毛染した作品を出品(ご提案)させていただきました。
結果、染色加工後に洗濯も可能な本革風小物作りの素材、技法としてハンドメイドの領域を中心に高い評価を頂けました。

今年の作品は染織の世界で下絵描き用の色素としてよく知られている青花、青花紙を主役にしました。

「青花紙のこと」を多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。

 

作品タイトル ”UMI ~もう一つのJapan Blue~ ”

 

青花は少なくとも室町時代には商業として栽培、青花紙に加工されていたようで、
当時は下描き用の染料ではなく、絵具として用いられていたそうです。

有名な富嶽三十六景の一度は目にしたことのある“神奈川沖浪裏(挿絵1)”


この作品の青の部分にも一部、青花が使用されていたことが近年の研究でわかったそうです。

古今和歌集には鳰の海(におのうみ)と琵琶湖のことを“うみ”と記された一説が登場します。
また、滋賀県ではお馴染みの琵琶湖周航歌、この歌詞の中にも“われは湖(うみ)の子~”と表されています。
もともとは湖を“淡水の海”から淡海と呼び、大和から近い淡海の意から近江、それに対して遠い浜名湖地域を遠江(とおとうみ)と呼んだそうです。

作品に持たせたイメージは、青花の産地である滋賀県草津市にちなんだ琵琶湖の水の輝きとゆらぎです。
風渡る、古き良き近江の風景、これがこの作品タイトルの由来です。

青花の色素は通常であれば、洗うと落ちてしまう染料としては適さないものですが、
生地に特殊な前処理をすることで青色色素のまま染色、定着させることが可能です。
そこに着目し、筆描き用と捺染用、2種の前処理剤を併用し効果の強弱と変化を付与し、
さらに生の青花花弁の抽出色素(黄色色素多い)と、青花紙の抽出液(赤味で黄色色素少ない)を組み合わせて青色のモノトーンで構成しました。



制作方法は直線ストライプのスクリーン型を使用していますが、
地張りする時に部分的にテンションをかける事で縦横一様ではないゆらぎを表現しました。
部分的に前処理した布に刷毛染めすることで青花色素を定着させて琵琶湖の水の輝きとゆらぎを表現しています。

未処理の部分には染まらず、加工部だけが染まり、極希薄濃度で刷毛染めとソーピングを重ねることで得られる微妙な暈しと色褪せかけた郷愁を感じさせる雰囲気を表現できるのがこの手法の特徴です。

古き良き青花紙の生産とその流通は2020年、いよいよ終焉の時を迎えます。
現在、従来からの生産工程、流通形態とは異なりますが、新しい青花紙の生産と供給に向けてその地元、滋賀県草津市の行政と教育機関、そして民間が協同で研究、開発を進めておられます。
小社も微力ながらその開発の協力をさせていただきながら、近い将来、”新あおはな紙”完成の知らせを心待ちにしている昨今です。

<青花について>
青花紙の原料として知られる青花、正式名はオオボウシバナ(C.Communis L
var. hortensisi Makino)で、よく見かけるあの小さなツユクサの仲間です。
ツユクサの仲間といっても背丈は1mほどあり、その花も4~5㎝ほどになる非常
に大きな栽培品種のツユクサ(写真4)です。
その青花が今、生産の危機に直面しております。青花自体の生産、収穫が非常
に重労働を伴う、また青花紙に加工するのも伝統的な方法で非常に手間がかかる。
生産性と収益性のバランスの問題で、栽培農家さんが年々減少し、ついに商売
として青花を育て青花紙に製造、供給する農家さんが実質ゼロになってしまいました。
日本の伝統色材の危機を私たちも微力ながら、応援したいという気持ちで、今回の作品色材
として選定しました。
この色素は非常に興味深い色素で、アントシアンの類なのにマイナスの電荷を持ちインジゴ並みの耐光堅牢度があるともいわれています・・・。
この先は少し専門的すぎるので、やめておきます。
ご興味がある方は“コンメリニン”で検索してみてください。

記:株式会社田中直染料店   
  営業部 鹿児島 功也

059.感動はどこに

最近感動することがかなり少なくなった。学生時代は洋雑誌をパラパラするだけで刺激を受けたことが懐かしく思える。



少なくなった中での最近の感動はラジオで初めて聴いたビリーアイリッシュの(bad guy)、しばらく耳から離れなかった。映画はグリーンブック、特に黒人専用のクラブで弾いたショパンの曲のシーンが素晴らしかった。

調べたら、エチュードOP.25第11番「木枯らし」らしい。今度CDを買ってみよう。小説では折りたたみ北京(ケンリュウ)中国のSFで別世界を味わえる。もう一つ、最初の悪い男(ミランダ・ジュライ)。

いままでありそうでなかった感じが新鮮で、月に1〜2冊は読んでいるがこの前に感動した本は7〜8年前のクラウドアトラス(デイヴィド・ミッチェル)だから久しぶりだ。

音楽、映画、小説ときたらデザインはというとなかなか思い浮かばない、自分が仕事をしているからなのか?それともにぶくなっているのか?問題だ。 感動しなくなったなどと言っている場合ではない、感動を与える立場なのだから。

しかし感動となると、テキスタイルデザイナーとして特に図案は難しい。ある人によると図案の仕事に未来はない、今までのものをアレンジするだけでいいから。といわれた。

そういえば某大手のプリント会社では図案の制作者のことをデザイナーではなくオペレーターと呼んでいる。オペレーターをグーグルで調べると「操縦者」になっている、つまりキーボードを押すだけの人なのか?おそらくもうすぐAI図案がでてくるはずだ。

便利になる人もいるかもしれないが、誰も乗っていないエレベーターで「1階です、ドアが開きます」と機械的な音声のように虚しい感じがする。

アート、食(お酒も)、建築、風景、旅、車、など感動したいものは沢山あるが気長に出会いを待つことにしよう。もちろん自分から探しに行くことも忘れずに、そして感動のスパイスをデザインに込めていきたい。

記:豊方


058.TDA存続の意義

色々な所で色々な言葉でテキスタイル(染織技術)が文化とかかわっていること が多いかを感じることがあります。

金沢美術工芸大学の大高教授が自身の個展で作品のことを告知された時に、テ キスタイルとテクスチャは同義語であると案内をされ、作品を見てその織を鑑 賞して欲しいと言われていました。

私は織物メーカーに勤めて多くの織物を視て触ってきました。触ればそのもの の原価が判ると自負していた時もありました。人間の感覚は視て触ることでよ り研ぎ澄まされことを教わりました。

人間の感覚について、現在の義務教育プログラムでは感性教育が欠如している 為に脳はバランスが取れていないことが指摘されています。 脳科学では人間はハードに対してソフト、クールに対してウォームを選択して そのバランスを取っています。

倉敷市立短期大学の田中教授が地元の児島で「フクロプロジェクト」を企画開催 された時に展示会場になった小学校の教頭先生が教育プログラムの中でいかに 現在の教育プログラムの中で感性教育を行うことが難しいかお聞きしました。 教育現場での限られた時間や経費の問題、その専門性など小学校の先生には大 変な事だということが判りました。 その為にはテキスタイルのプロが感性教育のお手伝いすることの重要性がある ことを感じました。 TDAのメンバーが多くの方々とこの感性で繋がり、バランスの取れた社会に なる様に協力することは重要な役目だと思います。 今、大きな世界の流れの中で持続可能な開発目標の行動指針として「SDGs」 が告知されています。この社会・経済・環境への成長を持続的に行う17の目標 実行することが公益性を持った法人の役目になってきています。そしてその活 動に賛同と協賛を得ることで団体としての存続価値が生まれるくると思います。

文責:東郷清次郎


057.「思いつくままにいくつか~」

• テーマは「共存共栄」

このテキスタイル業界で長い間生きてこられたのは、産地の産元、紡績屋、機屋、加工場などが あったおかげ。 これからも、産地が存続してもらわないと困る!そうでないと後世へ引き継ぐこともできない! そんな思いで、今改めて「産地との共存共栄」を、知恵を出し取り組んでいく必要があることを 強く思います。  

• 田舎ですが、• YOUは何しに日本へ?  

今日本は、観光立国を目指していますが、外国人は日本らしいものを求めます。 日本人が気づかない事や知らないことに意外と興味を持ったりします。 このことは、外国の観光客が増えていけば、日本人も今までとはまた違った見方が芽生え面白い ものが生まれてくるのではないか。  

• 田舎ですが、• 沖縄LOVE  

リゾート目的でもありますが、紅型、久米島紬、ミンサー織、八重山上布など布地文化が豊かなことと、独特の音楽が好きで毎年訪れています。 昨年は、喜如嘉の芭蕉布を訪れましたが、若い人が数人いて頑張っていました。 聞くところによると、結構入門したい若者は来るようですが、沖縄の人を優先するとの事。 それにしても、芭蕉を栽培する畑を耕すところから始まって、完成までの気の遠くなる長い 製作工程は根気のいる仕事で、自分には無理と思ってしまいました。  

• 田舎ですが、  

最後に、私が住んでいる「狭山~川越エリア」のアピールで恐縮です。 ・狭山は、日本三大茶の一つ「狭山茶」が有名で、茶畑が点在しています。 5月は、新茶の季節。ほんとうに茶畑の緑がきれいです。 ・川越は、情緒あるエリアがあって、近年観光客で大変賑わっています。 着物が似合う街として、毎月18日は着物の日。 着物を着ていると、いろいろな割引やサービスが受けられます。 特産の「川越唐桟」という細かいストライプ柄の綿織物で着こなすと粋! 決して古さは感じずモダンなストライプです。 さつまいもの産地で、おいしい老舗のうなぎ店も沢山ありますよ。  

都内から日帰り観光ができますので、息抜きに遊びにいってみてはいかがでしょう。

文責:内田 滋


056.東北の染織レポート
「途絶えた伝統染織復興のこころみから」

ここ5年程続けている東北の染織フィールドワークにおいて、一度途絶えた伝統染織の復興例についてのレーポートを二つ程取り上げさせていただく。

まず、岩手雫石地区の「亀甲織」である。亀甲織は、藩政時代南部藩に献上され、上流武士の「汗はじき10」として使用、明治、大正時代にも着用されてきた。戦後に一度滅びた亀甲織が、この地で復興できた大きな理由は、雫石地方は大麻の栽培地であり、昭和の始めごろまでは全国でも有数の麻の産地であったことがある。  

滅びてしまった理由は、製織に特別な知識と経験を要したために織れる人が少ない上に、戦後に安価な肌着等が流通したことがあげられる。  

今回訪ねた「しずくいし麻の会」は、亀甲織を昭和40年代に、雫石町の加藤ミツエさんが復元に取り組み、その成果をもって昭和60年に加藤さんが雫石町農業大学講座で「亀甲織講座」を開いた。この受講者の強い要望により「亀甲織研究会」が結成され、昭和63年に現在の「しずくいし麻の会」が発足することとなり、技術習得と制作が続けられている。  

「しずくいし麻の会」会長の上野節子さんにお話しを伺うことができたが、一番の苦労は大麻の栽培から糸を績むまでの作業とのことで、麻の栽培から製織までの気の遠くなるような工程を、主婦でもある会員さん達が、家事の合間を縫って行っていることに頭のさがる思いである。  

亀甲織の特色は名の通り、もじり織りにより六角形の模様を作っていくことである。そして、もじり織による亀甲形の穴が、通気性に優れた機能となっていることも特色である。

現在の亀甲織(ディテール) 汗はじき(明治31年、加藤キワ作)

もう一つは、秋田鹿角地区の「紫根染・茜染」である。かつて「紫根染・茜染」は栗山家が古来の染色技法を守り伝え、昭和28年に全国唯一の技法とされ、栗山文次郎氏が国の無形文化財に認定された。父のあとを継ぎ文一郎氏が引き継いだが、平成3年に文一郎氏が亡くなり、古来の技法が途絶えた。その後、関幸子さんが「鹿角紫根染・茜染研究会」を立ち上げ、栗山家が伝えてきた伝統技法の研究と、紫根染・茜染の普及活動をされている。  

この鹿角の「紫根染・茜染」の意匠的特徴は大胆な絞り文様(大桝絞、立枠絞、花輪絞、らせん絞)が特色であり、何より手数をかけて染と媒染作業をくりかえし行うことにより、元来光堅牢度は弱いとされる紫においても大変堅牢であるのが特色である。特に媒染にニシコオリ(別名サワフタギ)の灰汁を使用することも、堅牢さをもたらす要因の一つであろう。布素材は主に綿、絹地である。  

現在岩手県盛岡市にある唯一「南部紫根染・茜染」を商品として扱っている草紫堂のルーツは鹿角である。草紫堂は古来の染色技法をベースに独自に化学的手助けを加えた技法で染められているとも言われているが、詳しい染色技法、工程については私には教えてくださらなかった。  

栗山家の伝統技法の研究、研鑽をしながら、普及活動に奮闘されている関幸子さんを中心に、今後も研究会を継続させていただきたいし、お役に立てることがあるのであればお手伝いしたいと思う活動である。  



栗山家紫根染・茜染ふくさ


関幸子氏紫根染・茜染作品

参考文献
「伝承を紡ぐ(亀甲織)」発行:雫石市2005年 鹿角市指定有形民俗文化財調査報告書
「古代かづの紫根染・茜染資料」発行:鹿角市教育委員会

文責:大高 亨


055.インテリアトレンドセミナー

 来週の27日に東京、3月1日に大阪で行われるインテリアトレンドセミナー、先週レジメの原稿ができセミナー直前に印刷ができる状況です。さらに講師の方は今パワポ制作で大変な状況でしょう。私も大学や専門学校で非常勤をしていますが一時間半の講義のために何日もかけて制作していますので他の仕事もありつつ講義の準備は本当に大変だと思います。

 このセミナーの前身は2002年に始められたTDAテキスタイルスクール大阪で当時は東レ、ユニチカ、倉敷紡績など協会の会員を講師として行われました。その後2003年に東京でも行われ2月14日に特別講座としてインテリアトレンドセミナーが始まりました。当時私も東京スクール運営に携わりました。スクールではテキスタイル素材、企業ガイダンス、テキスタイルマーケティングなど様々な講義を会員以外の講師も交え行われました。その中には化合繊、複合素材の未来をテーマに新井淳一さん(テキスタイルプランナー)にお願いしましたが生徒さんが思ったより集まらず、受講料が500円なのになぜ人が集まらないのかと思いましたが、実はTDAの知名度のなさと、運営の不備が原因であることを痛感しました。しかしトレンドセミナーは当時から人気があり定員50名に60名以上集まり大急ぎで椅子の準備をしましたが足りず立ち見の方が出てしまった事を今でも鮮明に憶えています。

 最近は認知度も広がりこのセミナーを軸に産地と協力したり、イベントに参加したりと発展しています。参加される方もテキスタイル企画の方だけでなく 様々なインテリア関連の方が参加するようになりました。2月22日現在、東京188名、大阪77名の申し込みがありました。今日3人の講師にお会いし 残り4日間ですが、やはりパワポの制作に追われているそうです。ちなみに撮った画像は数千枚になるそうです。

 このコラムがホームページにアップしている頃はすでにセミナーが終わっています。次は6月にミラノサローネのセミナーが行なわれることが今日決まりました。アンケートを参考にしたり、皆様の意見を取り入れながらセミナーの進化と協会の発展に繋げられればと思います。

文責:豊方






054.魅せる布

ずっと布と暮らしてきた。
生まれたのは、線維の町西脇。
「ジョコウさん」の意味も分からない幼い頃、町ぐるみの廃品回収で空き地に山積みになった播州織の布から、気に入ったものを貰って帰って人形の服をせっせと作った。

私たち姉妹の洋服は、ほとんどが母の手作りだったので、生地屋さんに行くのが楽しみだった。
中学時代、家庭科の時間に作ったパジャマのknow-howが私のソーイングの全て。そしていまも時々は洋服を縫う。

その後京都の大学で染色を学んだ。
小さなデザイン事務所に就職し、寝装・インテリアテキスタイルデザインを5年間、その後フリーでホテルの別注カーペット図案を20年近く描いた。

高校の時に個人的に日本画を習っていた私は、仕事と主婦の傍ら表具教室に通っていた。やがてテキスタイルの仕事が手描きからPCに変わったのを機会に、軸装作家に転職。

現在も常に布が傍にある。 軸装に使うのは・・・たまに表装裂、殆どは正絹の着物の反物やシルク・コットン・麻の洋服生地、古布など。

たくさんの布が出番を待っている。

文責:辻めぐみ





053.2017年産地を巡って

今年のTDA 事業活動「イノベーションプロジェクト」は産地見学会が3回企画されました。
児島 ・十日町西脇の3ヵ所で、私は十日町と西脇に行って来ました。
皆さんが日本の産地大きく変化していることについては 、マイナス面(減産・縮小・高齢化)での 認識 をされていると思ます。しかし、今回の産地見学では新事業が生まれ育って来ていることが見えて来ました。これは繊維産業の新しい動向、イノベーションとして捉えられる事象だと思います。

製造物 「モノ」の進化発展は尽きることなく生産地を替えてまで効率性が追求されて行きますが、それを使う「コト 」についての消費地はまだ今のところ激変していません 。「モノ」へのこだわりや 「イミ 」付けをすることで 「モノ」に 価値が生まれ 、新しい文化が創造されます。ファッションやイテリアは布が人を包みこむ「コト」で、ライフスタルとして の 大きな「イミ」を生み出す主役になります。

「モノ」、化学繊維の機能性追求には留まるところが有りせん。天然素材も遺伝子操作などの科学技術導入によって新しい繊維が開発されて来ています。特に今注目されているのが「シルク」です。これまでの絹生産の効率性の悪さを、人工飼料によって1年中シルク生産が可能になり、人体に優しい要素を製品に特化させ 、医療製品として機能を持たせるなどの技術開発が進んでいます。一昨年ですが国立科学博物館で開催された「ヒカリ展」には「光るシルク」が出展され人々の目を見張らせました。

この「モノ」の進化発展を活用して 、地場産業の 経営者と進取の気性を持ったデザイナーの創業意欲とが結び付いて 、新しいSPAライフスタイルの提案が出て来ています。 例えば、十日町の「きものブレイン」(日本のきものの再生を担っている会社)の岡元松男社長は自敷地内に工房を造り、再生・生産・創造の流れをシルク文化として創ろうとさています。

西脇では、 亜麻による原料から製品までの一貫した商品開発をされている「麻バン」は、亜麻が持つ健康増進機能に注目されて、 種から取れる亜麻仁油の活用や二毛作 をすると米の生産に相性が良いことなどの発見をされ、新商品を開発されています。自然派の新しいSPAライフスタイル提案です。 また、玉木新雌さんは自社ブランド 「tamaki niime 」を創って 、工場にもブティックを併設されて、その建屋は美しく新鮮で元気をくれる空間を創り出してい ました。 こにも 新しいSPAライフスタルが見えて来ました 。 TDAでは新しいテキスタイルデザインの活動を支援協力して、共に日本の繊維産業活性化につながる活動を進めて行きます。 今、 私達は 公益法人化に向けて活動中です。 皆様のご協力と支援をお願い致します。

文責:東郷 清次郎


052.LOVE RIMOWA

海外トレンドセミナーのため、毎年フランクフルトに取材に行っているが、今年も半年以上が過ぎ、すっかり今年の取材は頭から抜けきってしまった。今さら補足もないが、ちょっとしたこぼれ話ということでお伝えする。
1月、フランクフルト空港に着いた早々スーツケースのキャスターが破損したことに気が付かず市内へ向かっていた。
飛行機の移動中の破損はよくある話だが、空港で気が付いた時には、その場でカウンターに申請すると修理の保証をしてくれる。だが時すでに遅し。
しかし市内の数あるリモアのショップで修理をしてくれることがわかった。
リモアは、ドイツで生まれた歴史ある旅の必需品となるスーツケースメーカーだ。
スーツケースなので輸送時のハードな取り扱い時の破損を想定しているのか、ショップに行くとキャスターだけもらうことができた。今まで気が付かなかったがスーツケースのボディに収納されている小さいツールで、素人でも簡単に修理できるよう設計されていた。
もう15年以上使っていてアルミ製のボディはデコボコになり、またそれが長年愛用した味わいが出ていて気に入っていることを店員に伝えると、他のキャスターも壊れるといけないからと余分にプレゼントしてくれた。これから旅の移動中も安心できる。
道中の破損の時は特にうれしい神対応だ。
帰国の日、フランクフルト空港に早く着いたため、空港のリモアショップに立ち寄ってみた。持っていたリモアを見てリモアファンとみられ、新製品を進めてきたが、今回のキャスターの破損を伝えると、「時間があれば一緒についてきて!」といわれ、後をついていくと、空港の地下にリペア工房があった。破損の時の部品をほぼ揃えているらしい。
ものの5分でキャスターすべて新品に交換してくれた。どうやら今の部品のほうが断然丈夫とのこと。これも神対応。
リモアも最近スーツケース業界ではとてもメジャーになったが、長く使いたい、信頼できるブランド価値はこんな時こそ特に感じる。
メイドインジャパンもその品質の良さ、長く使えるといったところが世界中で支持されるようになった。 ドイツと日本、こんなところに共通点を感じる。
私は、以前は長くブランドライセンスの仕事に関わってきたが、支持されるブランドには何か必ずブランド神話を持っている。
国によっても異なるが、創業からのストーリーやモノを通して、使う側の思いや品質がブランドへの愛着を高めていく。
長く使い込んだものへの愛着、なんだか職人の道具のような身の回り品に通じる。
今世界から日本のモノに注目を集めているなか、様々な日本製がブランド神話を作っていくことであろう。
日本製=高品質という世界からのイメージがあるようだが、にもかかわらず我々は壊れるとすぐに新しいものに買い替えるという習慣があり、またそれのほうが安いというが意識が強い。
それに比べ、訪米、特にドイツは修理しながら使っていくといった文化があるようだ。
リモアのスーツケースもフルモデルチェンジをせず、創業当時の原形を残しながら最新のパーツに進化している。そして、壊れたらパーツを新しくチェンジするといった対応がメーカーのポリシーを垣間見る。 他の欧米のブランドよりファッション性やトレンド感は低いが、車や家電のドイツブランドに共通したポリシーだ。
デザイン性、品質は最も消費者の心を引くが、リペアやメンテナンスのサービスもブランド支持の大切な要素である。
長く使えることを考えたクォリティーこそ、ドイツと日本のブランド共通点かもしれない。 

文責:北原 美希


051.テキスタイルデザインの仕事

私は、なぜテキスタイルデザインの道を歩んできたのか、自然すぎて深く考えることもなかった。

記憶を辿ると、特に美術が好きとか、才能があったわけでもなく、普通に高校生活を送っていた。
進路を決める時になって、突然思ったのです。・・・普通の生活の中で、特に裕福でなくても誰もが手に入れることができる素敵な物を造る仕事がしたいと・・・。
大学時代にデザインを学んだが、自分はテキスタイルデザインに向いているのではないかと思うようになる。
デザイン研究所に就職して、主に輸出向けの服地の図案を描いた。最初は花柄を描くのに苦労した。 花びらとおしべ、雌しべが不自然に見えたり、硬い表現になったりして悩んだが、何柄も描いているうちに、段々花柄が好きになり、テクニックも上達していった。
これだけ色々な物に囲まれて生活していても、新しいものに出会うと、ワクワクする。
自分自身をワクワクさせる為に、人をワクワクさせる為に、描き続けていくのだろうと思う。

文責:浪江 陽子


050.布と戦争

戦争の要因は複雑で簡単には言い表せない。利権が争点ならまだ解決方法も考えられそうだが、宗教や文明の衝突ともなると終焉が見えにくい。報復が幾度となく繰り返され、悲惨な殺戮が止めどもなく続いていく。
カタールの放送局アルジャジーラが伝えるシリアやイラクで、戦火の中を逃げ惑う人々の様子には、思わず目を背けてしまう。犠牲を強いられるのはいつも弱者の女性や子供たちである。

過激派組織イスラム国の占領により破壊が繰り返され、危機的な惨状が伝えられるイラク北部の都市「モスル」は、古来綿やウールの薄地織物の産地だった。日本では一般にウール素材で平織の薄地織物をさす「モスリン」は、この地に由来するらしい。

もとは綿布だが日本には明治初期にウール生地として伝わり、着物や襦袢などに使われてきた。平織の滑らかなドレープ性に富み肌触りがとても良い優しい素材である。この地に栄えたメソポタミア文明の時代から、人々を優しく包んできたに違いない。

同じように中東でイスラエルと対峙し、戦闘と抑圧にもがき苦しむパレスチナ難民の街「ガザ」を語源とされる布がある。「ガーゼ」である。細い番手の綿糸を漂泊して、目の粗い平織にした柔らかい「ガーゼ」は、通気性に富み、包帯など衛生素材として使われるのはご承知のとおり。古来この地も綿花栽培が盛んであった。乾燥地帯で新生児や乳幼児を害虫などから守るため、体に巻き付け覆いつくす習慣もあったらしい。「ガーゼ」はドイツ語で、かつてこの地に赴任してきたドイツ人医師が、母国に持ち帰り広めたからともいわれている。このことは都市伝説かも知れないが、「ガーゼ」がドイツ語であることは間違いない。  

日本では戦争とのかかわりはどうであったか。そう思って書架から2冊の本を取り出してみた。堀切辰一の「布がかたる戦争」と「布のいのち」である。



著者の堀切一郎は市井の民俗学者。庶民時代裂の研究家で膨大な襤褸(ボロ)の蒐集で有名。「布がかたる戦争」には満州で4人の子供と姑を失った女が、子供の丹前に寄せる壮絶な思いや、戦病死した上官の、執拗と思えるほど縫い付けられ下帯のひもに、身内を戦場に送り出す家族の無念さを痛感した退役軍人の話など5編が収められている。

「布のいのち」は越後獅子の衣装、女炭鉱夫の腰巻、海軍相手の女郎の衣装、貧しい農家の女性の股引などなど、本人やそれに関わる人に取材した記録である。貧しい布の向こうにある暮しに、時として豊かな生命力を感じさせられるので救われる。  

布には2つの大きな役割があるように思う。一つは命、生命を包むもの、育むもの。「包」という字が妊婦を表す象形文字から生まれたことは知られている。「己」という胎児を覆うのは母体。母と新生児を包むのが布。そう考えると布に課せられた使命は決しておろそかにできない。布に向き合う時、自分自身の姿勢が問われている気がする。それは戦時でも平和時でも。

もう一つは人々の想いや営み、歴史までも記録する道具としての役割。布には幾層にも人々の想いが重なって物語が作られている。布がかたる物語は過酷な労働であったり、ささやかな祝いであったり、人間の喜怒哀楽全てにわたる事柄であろう。作った人使った人の情報が詰まっている。私たちは布を通して過去の情報に接することが出来る。恵まれた環境にあることを幸せに思はなくてはならない。この良きシステム、次の世代になんとかバトンを渡していきたい。

「今は戦前か?」 2017年6月14日 共謀罪法案が強行採決された夜に

文責:鈴木 洋行


049.銘仙そして今後

私の亡き母は大正12年生まれで昭和40年初め頃まではまだ着物を着て商売をしていた。
母は、奈良のお菓子問屋の生まれで祖母は10人兄弟の長女、その祖母の長女の私の母と、その母と歳の変わらない祖母の末の姉妹達もいつも着物だった。
そんな皆が仕事で着る着物なのでそんなに高価なものは無かっただろうが、そんな中でもちょっとオシャレぽい銘仙の着物、と言ってもその頃はそれが銘仙だとは知らなかったのだけど、子供心にも何か着物にはチグハグな服のような色んな楽しい柄が目を引いて好きだった。
私もその頃の写真に、銘仙のアンサンブルを着せられているのがある。 その着物を解き、洗い張りして反物に戻したものが、今でも私のタンスにある。
そんな銘仙が懐かしくもあり好きで古布の銘仙コレクターの展示会にいったり、お店で端布を見つけるとついつい買ってしまう。 大正時代から昭和初期にかけて流行ったという銘仙。 季節の風景・花を織り込んだものや縞・十字・格子のモダンな抽象のもの。
端布からは五大産地の伊勢崎・足利・秩父・桐生・八王子のどれだか分からないが謎解きのように何時か分かるといいなと思っている。
後付ではあるが、そんな母たちの着物姿の背景があるからかテキスタイルデザインの仕事にすすんだのかもしれない。 私の仕事は、企画の仕事もあるが図案の仕事が殆どで、大阪の中央区の商社などからの依頼図案が80%という感じでその商社も大阪から無くなって,かって会社のビルだったところにマンションが建ち、オフィス街が住居地区になって来て昼間から犬の散歩の人が増えて、糸へんの町でなくなってきている。 私はグラフィックからテキスタイルに入ったので昭和50年前後に業界にコンピューターが入ってきてもあまり抵抗は無かったのだが、途中から仕事のやり方が目まぐるしく変わっていったのを覚えている。
手描き図案がパソコンでのIllustrator・Photoshopで制作に殆ど変わり、私は銘仙柄を描いたことはないが、今は銘仙もパソコンで再現しインクジェットでプリントされているものも出てきている。
あの銘仙特有の解し(ほぐし)が、遠目では分からないほどまで再現されている。
織りとプリントとコストの凌ぎ合いで、コンピューターを使わないと仕事も続けられなかったのだからこの変化もしかたないのだが、この40年でのコンピューターが施したものは、これでいいのかという不安と疑問が今でも拭えない。
今後又、人工知能なる新たな変化には付いては行けないかも知れないが、新しい物にも興味を持ち勉強し、今まで大事にされてきたものを新しい変化で無くしてしまわぬ方法を考えながらテキスタイル(糸・布・織・染など)に、そして昔心ときめき、どう織られているのかと目を凝らして見てきた物に、これからも関わって、人工知能と付き合っていくであろう人達にも、この素晴らしきテキスタイル達、そして銘仙の文様(デザイン)の楽しさも伝えていきたい。

文責:岩岡利都子




048.アフリカンテキスタイル

10年近く前、私はイラストレーションを学びにフランスのパリに留学していた。もちろんフランス文化に触れるのも目的だったが、私の気持ちを一番魅きつけ魅了したのはアフリカ文化だった。
いい意味で思った以上にパリはメルティングポット(人種のるつぼ)。
19世紀に建てられた美しい街並みの中にとても自然に、むしろ時代の先端を行くモードのように色鮮やかな布をまとった人々。
独特の活気溢れるマルシェの野菜や生地達。元はテキスタイルメーカーに勤めていたこともあり布には敏感。パリに住む中でアフリカ系の知人達も増え、この素敵な布達を本場で見たいと知りたいといざブルキナファソの知人宅へ。
日本には馴染みのない国名だが西アフリカのサハラ下、マリとコートジュボアールに挟まれた国。特に有名な産物や観光地もないが、赤土で月と太陽がとっても大きく、音楽の中人々はいつも笑顔で踊っている場所。
私が今まで見てきた布はこの赤土で、強い太陽の下で陽気な人々のために作られたのだと確信した。
泥染、藍染、ろうけつ染、草木染め、インスピレーションを受けるものが自然物なのでどこか日本を思い出させる懐かしいものも多い。その中、その時代で流行の柄のバティックもある。扇風機やペットボトル、自転車、大統領、日常目に付いたり新しいトレンドだったりをそのままとてもシンプルに布に描いている。
シャネルの柄。この布の話を聞くとシャネルの香水No,5が流行ってるから布にしたと。確かにロゴの周りに5番の数字がたくさんあしらわれている。
意味のある柄も多く、貝の柄はお金に困らないように、鶏ヒヨコ卵柄は子孫繁栄、家庭円満。 柄をデザインする時、感じたものを描きパターンとしてリデザインする。デザインしようとする頭がかなり働いている。
が、このアフリカのテキスタイルを見ていると感じたものをダイレクトにかつシンプルに描き最終的にデザインとして力強いパワーを出している。とっても低い大きな太陽の光に後押しされてもう一度自分の作品、パターンをシンプルにリセットしようと感じた。

文責:ヒロタジュンコ






047.ファッションとはコミュニケーションツール
服がもたらす小さなきっかけ

衣服がもたらすコミュニケーションとは友人や知人の洋服を褒めたり、変化を共有したり、もしくは明日のコーディネートのドレスコードを合わせたりすることから人と人がつながってゆくことだと思っています。
そんな中、とあるブランドのコートを着ていると知らない人から話しかけられます。近所の人や職場の人からはそりゃ声もかけられるだろうと思われるかもしれませんが、ここ数日の間に知らない土地で知らない人から私が着ているコートについての質問を受けました。知らない土地で呼び止められるのには少々恐怖を覚えます。
「あのぉ〜」
という言葉を聞くと、道を聞かれるのか、宗教や何かしらの団体への勧誘か、もしくは海外の恵まれない人たちへの寄付かと過去の経験から嫌な予測をたてるわけですが、
「あのぉ〜すみません。そのコートは、、、」と続くと少しホッとします。
誤った着方をしているのだと思ったのでしょうけど、細部をみると着方が間違っているわけではないという認識に変わり、それを考えたのは貴方なのか?!というのが主な質問内容です。決して私がつくったものではないので、私の知る限りのブランドコンセプトと知識を伝えて去るわけですが知らない人の洋服に興味をもたせるほどの服をつくっているデザイナーを改めて尊敬しました。気になってしまうものや感動を与えられるものづくりは人と人を結びつけることができると実感しました。
毎日着るもので、毎日肌に触れ、みえるものだからこそ、人はどのような洋服を選び、どのように着こなすのかに興味を感じ、関心を与えるのでしょう。
糸が逢うことから「縫う」という行為がうまれます。イトヘンがあわせてくれるのは縫われた洋服であり、これからも洋服はコミュニケーションツールとして重宝されるのだと思います。決して話上手になるような秘宝アイテムではないものの、きっかけを与えてくれるという小さな出逢いをもたらしてくれるものであると感じています。

文責:前田 博子


046.テキスタイルデザイン(特にインテリア)に携わって

『TDA』には設立時より会員として入会しておりますが、20年ほどの間、活動はセミナー出席ぐらいでした。
そんな私ではありますが、2年ほど前より新米理事として活動しております。
連絡会にも出席し、協会の現状と課題が少しずつ理解できるようになりました。
最近は協会の公益法人化を目指す活動が、重要となってきております。公益法人化が達成されれば、より幅広い活動が可能となり、業界の発展に大きく貢献できるものと期待しております。

45年程前、商社に入社し、私の仕事はスタートしました。 織物、プリント、敷物、インテリア小物、のれん、海外ブランド展開など、インテリア製品に携わり、様々な経験を積むことができました。
そのなかで、「企画の立案」、「アイデアの抽出」などを考えている時間が一番充実しておりました。  

現在は企業内デザイナーから独立して約30年になります。 フリーの立場になってからは、「小売」「問屋」「メーカー」といった様々な業種の方々とかかわるようになり、製品化のプロセスがより理解できるようになりました。
最近は、業界としての発信が弱く、ヒット商品が生まれにくい状況を大きな課題と考えております。  

理事として活動する中で、「『TDA』がもっと認知され、会員を増やしていくことが重要である」との声を賛助会員の方々から多くいただきます。
そのためには、『TDA』としてビジュアルに訴えかける、魅力的な提案や情報発信を行っていくことが必要であると考えております。  
今野理事長からのトレンド提案もジャパンテックスにて行われておりますが、加えて今後は「色」、「パターン」、「技法・素材」の各々を中心とした『TDA』からのトレンド提案、メーカー産地情報の提供等が考えられます。
「『TDA』発の情報」により業界、会員の皆様の発展に貢献していきたいと思います。

文責:桜井 功


045.一歩づゝ前へ

現在コンピューター社会の出現により『図案』は手書きの世界からコンピューターによる図案制作に、日本という地域から世界へというグローバル化現象を生み出す事になりました。。それに伴って図案に基づいた製品の製作は、輸送手段の発達にもより、生産地の脱日本化を招き、手書き図案の必要性の減少という状況を作り
出して図案界に右肩下がりの社会経済現象を起こした。『図案』『図案家』という言葉の歴史は百年と少しであります。『図案』や『図案家』はその性格上、産業と結びついているのでその時々の社会経済に左右され、時代性は否めない。

染織産業が最も良い時代の昭和四十九年頃私は社団法人日本図案家協会の準会員になりました。正会員約七百名、準会員約三百名、賛助会員約四百社、総計は約千四百の会員を擁する団体でありました。昭和四十年代の図案展に出品者は会員の半数が出品し出品点数は出品者の二、三倍。売約金額は三千万円ほどでありました。昭和三十八年から四十二年頃まで輸出図案が盛んな時が繊維業界が最も華やかだったのかもしれません。

現在のように美術学校やデザイン学校が充分あるわけではない時代、塾という形で図案家は弟子の養成を行い、デザイン教育の一端を担ってきました。その塾内部での師弟、兄弟弟子という縦の結束は硬かったが、図案化同士の横のつながりは薄かった。そのような事で図案家一人一人では解決できない事を協会の力によって社会に主張していく事ができるという期待を寄せていた。

TDAにおいては、現在会員一人一人の社会に対する関わりが様々な形を持った人々の集まりだと思います。それぞれの素晴らしい能力、知識をもってTDAとかかわり、自分の居場所を見つけて作って行く事によってTDAの社会に対する期待度がまし、一人一人の形の変わった夢が生まれてくるような気がします。

TV,映画好きの私は、このようにセットのインテリアがどうしても気になってしまう。この業界で仕事をしているので、あのカーテンは○○メーカーのだとか、主人公の人物像とドラマのインテリアの設定を重ねて観てしまう。だから先ほどのように勝手に妄想してしまう。依頼された仕事のアイデアを偶然観たドラマのシーンからひらめくこともよくある。

会員になって会費を払っているだけでなく、どんなイベントにでも少しでも興味を持ったら参加して会員どうしの横のつながりを作ってください、決して無駄な時にはなりません。その一つ一つがTDAを理解し発展させ個人のつながりを豊かにする事になります。TDAの会員の人々はそれぞれに素晴らしいものを持っている人々の集まりだと感じます。

文責:桑 和成


044.「売れる」に過敏に反応してしまう自分へ!

コラムの前置きとして簡単に自己紹介をさせていただくとしたら主に寝具、インテリア関連のプリント柄デザインを扱う企画会社を設立して、今年23年目になる。現在、私を含め3人のメンバーと外部のデザイナーさんや、アトリエ、そしてデーター分析等を扱う企画会社との共同作業で弊社は成り立っている。
成果物の提供先、つまり顧客様は最初はメーカーさんとのおつきあいからスタートして、現状は直接小売店さんのお手伝いをさせていただく機会も増えている。 そういう訳で仕事の成果という点では、自社のオリジナルなデザインを作成するというより、いかに依頼先の要望に答えた最終製品までのお手伝いができるかが重要になってくる。そしてその市場は、ごくごく一般の、それでいて幅広い生活者層向きの製品を扱ってるのでますます多様化していて難しい。

最近の要望は、、、売れるデザイン、売れるモノ! 
メーカーさんはもちろんどの分野の依頼先からもである。じゃあ、売れるデザインて何なのかということになってくる。そもそもデザインだけで売れる時代でもないしトレンドやコーディネートという言葉も、最近なんとなく印象が薄れた気がする。

話はそれるが、最近観た斎藤工と原田知世主演の「運命に似た恋」というNHKの恋愛ドラマにこんなシーンがあった。
バクっとあらすじを説明すると原田知世扮する冴えない夫と別れたシングルマザー「カスミ」と年下の新進気鋭の家具デザイナーの斎藤工扮する、「ユーリ」が再会する。二人は幼い時、親元から離れた生活の中で出会い、別れ際、将来再会の約束をする設定。どんでん返しがあったりして結末までは話が長くなるので省く。一方的に恋愛感情を告白する年下のユーリに戸惑うカスミ、まだ彼が幼い時出会った少年と気づかない段階での彼女は戸惑う。年齢も生活環境も違いすぎて相手の思いを受け留められないと感じたカスミは、ユーリを自分の住んでいるアパートに呼んで「あなたと私は立場も生活も違うの!」この部屋を見たら理解できるでしょうと言わんばかりに叫ぶ。2LDKらしきその間取りの中で、部屋干しの洗濯物、ダイニングテーブルに掛けられたビニール製のテーブルクロス、台所のカラーボックス。それに比べてユーリの住まいはコンシェルジュ付きの億ション。間取りもそしてインテリアもまるでヨーロッパの海外展示会で見るようなおしゃれな家具に囲まれている。

売れるデザインて何かなあとぼや〜っと考えていた時、偶然その番組を観ていた。二人の生活環境の格差、収入差を(あまり好きな言葉ではないが)表現する手段としてのシーンであればもう少し「カスミ」の普段の生活感をインテリアや小物で表現しても良いのでは?と。極端だが部屋干しのハンガーが可愛いとか、お金はかけてないけどテーブルに置いてあった3コインで買ったグリーンに彼女のこだわりのアレンジメントが印象的だったとかだ。ユーリがよりカスミを好きになるくらい、ギリギリの生活の中での彼女なりの暮らしへのこだわりを強調してもどうかと。ただし番組への批評ではない。テレビを見ていた時の私の勝手なこだわりであるのだから。

TV,映画好きの私は、このようにセットのインテリアがどうしても気になってしまう。この業界で仕事をしているので、あのカーテンは○○メーカーのだとか、主人公の人物像とドラマのインテリアの設定を重ねて観てしまう。だから先ほどのように勝手に妄想してしまう。依頼された仕事のアイデアを偶然観たドラマのシーンからひらめくこともよくある。

ただ最近、少し変化が起こってきている。

アニメや小説から映画化されるドラマは、それに携わる監督や関係者の世代も若いので、その新しい感性に驚かせられたり、理解できなかったりするこの頃。

じわじわと、価値観が変わっていってるのかもしれない。 話題の映画「君の名は」を観た若者達が映画の場面を聖地として訪れるスポットは、普段の生活の中にある自分たちも共有する見慣れた場所だ。がそこからの夕焼の美しさに感動し映画の主人公の感情と共有することに価値を求める。 次世代の若者たちの価値観が、SNSの普及とともにどんどん変わってきているのに、大人の私はついて行けてるのかどうか少し怖い。クリエーターの世代も視点が大きく変化している日本の現状を考えた時、「売れるモノ」という自分の価値観が本当に正しいのか?って自問自答してみたくなるこの頃。「共感するコト」自体が変化してきてるのだから、消費や嗜好、ライフスタイルも変わって当然だ。

普段の生活の中で、感動したり、手に入れたいと思う価値観がどんどん多様化している。
デザインを職業としている以上、結果として「売れる」というミッションが付いてくるとしたら、多様化している価値観を捉えて「売れる」にするのが本当に難しいと感じる。

「売れる」にこだわ理すぎてしまうと、長く業界の中で過ごした経験が邪魔をしてしまう。
仕事から離れたプライベートな時間での出会いや感性を大切にしながら、次世代の価値観とも柔軟に向き合いたいと思う。
ああ〜それにしても難しい。。。。

文責:吉村千恵子


043.日本のものづくりが未来を拓く

- あらためて見直すローカルイノベーション –

日本の食料自給率は40%を割っていると云われる。自然の変動や一旦緩急ある時、四方を海に囲まれた日本は輸入が非常に厳しくなる。戦時中の飢えの厳しさを体験してきた私は、現在の飽食の中にも恐怖を覚える時がある。大抵のものは我慢出来るが、飢えには限界がある。近 年の人口の急降下による人の減少も大きな問題だ。

いろいろな意味で縮小日本が見えてくる。21世紀はアジアの時代と云われているが、もう アジアのリーダー等と余裕を持つ時代ではない。韓国や中国、インドやその他のアジアの国々でさえ輝きを増し始めている。日本の未来は?私達は?如何に生きるべきかを足元から 問い直さねばならぬ時と思う。

日本には優れた伝統文化がある。地方にはそれぞれの産業もある。先般、日本の和食がユネスコの無形文化遺産になったが、日本人の味覚は世界一だと思う。味覚が発達していると云う事は他の五感も同様に発達していると云える。日本人の触覚とデリケートな感性は非常に優れていると思う。それに加えて他にはない四季のはっきりした美しい自然がある。これらは豊かなものづくりの文化を育ててきた。換言すれば日本人はものづくりに向いた民族だと思う。日本の領土とほぼ同じ位の広さを持つ北の国フィンランドは資源を持たない国であるがデザイン立国を国策として打ち出している。同様に資源を持たない日本はものづくりで世界に勝負出来るのではないか。

近年日本の繊維産業は数値を追い駆ける余り生産の基盤を他国に移し、本業の根源まで手放してきた。しかし近年その問題に気付き始めた人々が出て来た。地方創生の言葉と共にローカルイノベーションが立ち上がり始めた。
繊維産業は農業と同様、人間の生存に深く関わる基本産業のひとつである。目先の利益を追いかけるのみではなく本質を考えて行動すべき時代に入ったのではないかと思う。繊維産業も 従来の染織やテキスタイルの言葉の持つ領域を越えてグローバル化されて来た。今迄の染織 工芸やテキスタイルデザインの領域を越えて考えて行かねばならない。新しい視角で認識すると同時に本質を認識し直すことも必要であろう。

自分の生まれ育った土地を愛し、そこに育まれてきた仕事に誇りを持つ生き方を再構築すべきだと思う。特に日本には優れた染織文化の基盤がある。伝統と感性と最先端テクノロジーの 融合したものづくりが、世界で勝負する日本の未来を拓くのではないだろうか。

文責:わたなべひろこ


042.ふと、思ったこと

三十数年前、我が家がここに住み始めた頃、隣は畑で南側の窓からも西側の窓からも向かいの山が見え、 それは梨畑や桃の畑で緑や白やピンクに染まっていました。
しかし今では建ち並んだマンションに阻まれ向かいの山は見えなくなり、その山自体も緑がほとんど無くなりました。 先日鶯の声にちょっとほっとしたのですが、最近野良猫も少なくなり、毎年夏になると悩まされていたムカデも ここ数年お目にかからず、身の回りから自然がどんどん消えていく気がします。 気が付けば土の上を歩くことも無くなったのです。  

人は地球上の一生物なのでどんなに便利な世の中になっても、 人はやはり自然の中に安らぎを感じ、自然の恵みである天然素材にも心地良さを感じるのではないでしょうか。
ーーーもちろん化学繊維も面白いし、先進技術で作られた様々な素材はそれはそれで素晴らしいと思いますがーーー  
デザインにおいても、北欧のデザインが好まれるのも豊かな自然の中で生まれた故でしょうか。
そしてまた、四季の変化に富んだ美しい自然の中で日本の美意識が生まれ、きめ細かな工芸品、日常品に 独特で高度なデザインを残して来たのでしょう。 何かを作るときデザインのイマジネーションは自然の恵みを感じながら自然の中からヒントを得る事が多いと思います。  

6月の初めに「MIYAKE ISSEY展」を見に行きました。 三宅一生の集大成といった展覧会で、三宅一生の考え方が伺えるような面白いデザインいっぱいの見応えの有るものでした。様々な素材を使い次から次えと多彩な表現を試みる一生さんも伝統的な自然素材や自然から インスピレーションを得る事が多いとか、、、なんだかちょっと身近な気がしました。  

私自身も小川で遊んだり、花を摘んだり、自然の中で過ごした子供時代の記憶が潜在意識として発想の元になっている気がします。  
自然の恵みに感謝しながら自然を大事にして行きたいです。  
世界のあちこちで砂漠化が進み、世の中がだんだん無機質になっていき、草や虫もバーチャルでしか見たことのない 子供達が大人になった時、どんな所から発想しどのような感性でどんなアートやデザインが生れるのでしょうか?。。。

文責:今井 弘子


041.Ensemble/アンサンブル

風薫る5月を迎えていますが、と思っている間に、ムシムシとした梅雨に入り、直ぐに真夏日になります。

6月1日から3日間、東京ビッグサイトでインテリアライフスタイル展(インテリアの商品展示会)が開かれます。私どものオリジナルブランドisso eccoを最初に発表したのがこの展示会でした。今年で14回目の出展になります。ということは、テキスタイルデザイナーのブランドとしてisso eccoを立ち上げてから早いものでもう13年になるわけです。その間、国内ではインターナショナルギフトショーなどにも5~6回出展しましたし、ニューヨークのホームテキスタイルショーにも3年間続けて出展したりして来ました。

最近では、国内ではこのインテリアライフスタイル展とパリで開かれるメゾン・エ・オブジェにしぼって出展しています。パリでは11年間出展を続けています。

さて、展示会に出展する際には、私どもは毎年テーマを決めて、ディスプレーデザインをして、ブースを装飾しています。つまりisso eccoのデザインの世界観を見せるように心掛けています。これがなかなかエネルギーを伴うのです。

昨年2015年は『Doors/ドア』というテーマでした。その意味は、私ども展示ブースの「ドア」を開けたらそこには、isso eccoの世界観が広がり、胸がときめくおとぎ話のように楽しく、そして心が満たされるような、isso eccoのデザインに出会えますよ、というわけです。それは、比喩として「さあドアを開けて、一歩を踏み出そう、新しいイメージの世界の発見と、新しい自分の発見、そして、そこに新しいisso eccoがあります。」という話です。

これは、isso eccoのブランドコンセプトに通じます。「日常から少しだけ離れた異なる世界へ通じるドア、未だ開けたことのないドアを開けてみませんか、それは、あなたの心の中の未知のドアかも知れません……。」Open the door of your mind! これがisso eccoのデザインする上での心構えです。

さて、今年2016年のテーマは『Ensemble/アンサンブル』です。isso eccoの商品は、勿論私どもがオリジナルに企画デザインをしていますが、その商品の製造と販売を請け負っていただいているのが、協賛メーカーの各社になります。ですので、展示会、つまり商品見本市にブースを出展することは、協賛メーカーさんの発信の場でもあります。

言いかえれば、展示会場を「舞台」にisso ecco商品が「演ずる」とでも言いますか。デザインを演奏するというイメージになります。ですので今年は4社のメーカー商品が、isso eccoのカルテットでアンサンブルするというイメージにしました。

はたして、今年のインテリアライフスタイル展では、美しい四重奏ができますでしょうか?乞うご期待‼

文責:古屋 興一


040.祖母の布

祖母が亡くなり、数年がたちやっと改めて、祖母の残した荷物に手をつけた。 洋裁・和裁をしていた祖母には幼い頃、姉とお揃いの洋服やコートを作ってもらったものでした。

そんな祖母の影響で小学校の頃から布に触れミシンをふみ、子供が作るものなので完成度は低いが、小物雑貨や簡単な洋服を作ってきた。 何かを作ることや絵を書く事が好きでその後、高校でテキスタイルの仕事を知り、この道へ進んだ。

最近は仕事以外に何かを作る事が少なくなっていたが、昨年は友人の誘いで展示会へ作品を出展した。
まさに自分の作品は25年ぶり、仕事とはまた別の感覚で戸惑いながらも楽しんで作成できた。
その際、仕事部屋の生地を見直してみるとびっくりするほどでてきた。
小さな生地やボタンの一つも捨てる事ができず残す私は、やはりモノ創りが好きなのだと思った。
仕事部屋はそんな子達でいっぱいで今回の祖母の荷物整理でまた“そんな子達”が増えた。

でてきた生地や糸は約35年ものだがいたむことなくキレイなままだ。 祖母が買った布で、孫の私が何かを作る。
祖母は何を作ろうと思っていたのだろうなどと考えると、今はいない祖母を近くに感じる。
その布を見ていると何やら作りたくなってきた。
祖母の布で作ったモノは思い出が詰まったものになる。なんか素敵だ。
他の誰かの家にもきっとそんな思い出の布があることだろう。

今は欲しいものがすぐ手に入る時代だが、そんな思いでの詰まった布やできたものを大切にしていって欲しいと思う。

文責:今井要


039.金沢から諸諸

現在私が在職している金沢卯辰山工芸工房のことから、それに連なるもろもろ事を書く事にします。  

金沢卯辰山工芸工房は平成元年(1989)に金沢市制100周年の記念事業として設置されたものです。この施設は江戸時代に金沢の地を治めていた藩主前田公の政策の一つとして金沢城内に400年前に設置された加賀藩御細工所をルーツとしています。御細工所は当初、鎧、兜、武具等の修理を目的としていましたが、平和な時代の訪れとともに、城内及び藩主の身の回りで用いるものや進物品などの工芸品が作られるようになりました。一方金沢では茶の湯が盛んで、能・狂言、謡曲などの芸能も広く親しまれ、それらに用いられる工芸品にも高度な技術と文化的素養に裏打ちされた高度な感性が求められ、御細工所の御細工者たちは、能役者としても豊かな感性を磨き、当代随一の完成度の高いものづくりを目指し、1〜2年に一点程度の作品制作を課せられていました。御細工所は明治元年には廃止されたものの、その伝統は今日まで継承され、金沢を工芸の街と言わしめる土台になっています。

金沢卯辰山工芸工房は御細工所に始まるものづくりの精神を現代に生かし、伝統の継承発展を図る事を目的に、「育てる」「見せる」「参加する」の基本テーマを持ち活動を展開しています。「育てる」では高度な工芸技術を有する人材が育つ場と文化的素養を学ぶ場の提供をしており、日本全国、アジア、欧州等から集まった研修者31名が「陶芸」「漆芸」「染」「金工」「ガラス」の5工房に分かれ、それぞれの目指す道を極めようと、アート作品からデザイン思考の作品まで幅広い制作と発表活動を行っています。染の工房には織物のコースはありません。これは工房設立の基本目的に地域の伝統工芸の継承発展がありましたので、設立時の現状と地域の歴史を踏まえ友禅染がベースとなりました。織物は白峰の紬織、能登の上布と石川県郡部に限られていましたので織りは割愛されました。石川県は「繊維王国」として知られています、1874年(明治7年)に作られた金沢製糸場は200台の繰り糸機を持ち、富岡製糸場に次ぐ規模でありました、また1900年には現在の津田駒工業の元となった津田米次郎が力織機を発明し、絹織物業が発達しました。しかし近年、石川の繊維産業はポリエステルに特化した「量産型委託加工産地」として発展し、織物、ニット、繊維加工、染色整理、繊維資材の一大産地を形成してきました。しかし現在では業界の構造改革も進み、「量から質へ」「衣料に加え非衣料も」のキーワードとともに自立化を目指し、単なるテキスタイル産地からの脱却を目指すとともに、「企画提案型」企業への転換が進んでいる、また非衣料分野では2009年7月に東レが石川工場で炭素繊維複合材の製造を始めてから研究熱が本格化し、現在では津田駒工業が炭素繊維複合素材の自動積層機を稼働させ、自動車メーカーとの共同研究を行っていますし、産業技術総合研究所が新年度から県工業試験場に中部センター石川サイトを開設し炭素繊維の共同研究を推進する計画になっています。

さて工房に話を戻すと、「見せる」では当館常設展示室では御細工所から始まる地域の工芸作品の展示、企画展示室では特別展を開催しています。2015年の特別展は染で企画する年にあたり、捺染技術の代表的な分野に特化し、「染」〜更紗から友禅〜を開催しました。プリントのルーツであるインド更紗に始まり、ヨーロッパの更紗、イランの更紗、ジャワの金更紗、和更紗、紅型、筒描き、手描き友禅、型友禅の実物展示とともに、友禅染、紅型染では染色工程に道具と染料などの材料を組み合わせ、更紗では材料と道具、制作現場の写真を配置し理解を深めてもらえるように展示を致しました。この展覧会では当工房所蔵品に個人蔵の資料に加え、インド更紗、紅型衣裳を神戸ファッション美術館から、手描友禅染の資料を金沢美術工芸大学美術工芸研究所の協力を得ました。

また「参加する」では市民参加による工芸への理解と振興、金沢市の個性豊かで香り高い文化の向上を図るために、市民対象の体験工房の通年開設とともに、夏には親子・子供対象にものづくりの楽しさを体験していただいています。

金沢市は2020年に向け「文化創生新戦略」の指針のもと、街づくりを推進してゆきます、これは北陸新幹線開業のその後に向けて、また東京オリンピックに向けての文化プロジェクトと共に動いていきます。工房もその一翼を担って、使命を果たしてゆく事になります。

文責:川本 敦久


038.緞帳のはじまりと歴史

 長年お世話になった川島織物で、最も長くいた部署、美術工芸制作部で、緞帳の仕事をしていました。あまり知られていない『緞帳』についての由来、歴史、他、などなど、いろいろな事を述べたいと思います。

 緞帳の歴史は、非常に古く江戸時代に歌舞伎が発生した頃からと言われ、初めて歴史的に明確になってきたのは市村座からと言われています。 というのは、市村菊五郎の本拠だったようで、これと並行して中村座が有り、中村座が歌舞伎の座になったと言われています。
 「緞帳」はもともと上下方向に開閉する舞台幕(緞帳幕)で、左右方向に開閉する引幕(定式幕、引き割り緞帳)と区別されます。

 元禄時代に江戸で初めて櫓(やぐら)を上げた猿若座(後の中村座)の猿若勘三郎が、徳川御用船・安宅丸御船手の音頭を取り、その褒美に同船の船覆(ふなおおい)の帆布を貰って幕にし、初めて将軍家上覧の芝居を行ったとき、引幕で吊られた幕(定式幕。別名:狂言幕)が緞帳の始まりであったと言われています。
 中村座の引幕(定式幕)は、黒・白・柿 の配色で、後に櫓を上げ中村座を含めて江戸三座と呼ばれた 森田・市村 の二座の三色の配列は、森田座は 黒・柿・もえぎ、市村座は黒・もえぎ・柿 の順序(左から)でした。
 これらの幕は、幕府の許可された座、大芝居でしか使えませんでした。

図1 江戸中村座の定式幕(黒・白・柿色)   
現在は 平成中村座が使用。
江戸中村座の定式幕(黒・白・柿色)

図2 江戸市村座の定式幕(黒・もえぎ・柿色)  
現在は 国立劇場・大阪新歌舞伎座・浅草公会堂・日本橋劇場が使用。
江戸市村座の定式幕(黒・もえぎ・柿色)

図3 
江戸森田座の定式幕(黒・柿色・もえぎ)  
現在は 歌舞伎座・南座・松竹座・博多座・国立文楽劇場が使用。
江戸森田座の定式幕(黒・柿色・もえぎ)

  中村座以来、数々の芝居小屋が各所で相次いで興行を始めたが、1657年の江戸大火で全ての小屋が焼失、以後興行地は日本橋の堺町、京橋の木挽町と地区が限定され,いろいろ遷り変わって江戸三座だけが興行権を占有して、定式幕と共に格式を誇った。

 堺町や木挽町の大芝居は、町奉行の支配下にあったが、一方、寺社奉行支配の宮地芝居または宮芝居と呼ばれた小屋がけ芝居があった。1645年 芝、神明境内で笠屋三勝が始めたのが、もの興りといわれ寺社の収入源として、湯島天神,神田明神、市ヶ谷八幡などの境内で行われた勧進、開帳の一環的な興行であった。

  後に、1841年天保の改革でこれらは全面禁止の憂目にあい、一時衰退するがいつの間にか息を吹き返して、明治6年に宮地芝居10ケ所が公認され、その後各所に芝居の仮屋が現れ、取り締まりに手を焼いていた明治政府は明治23年全てを小芝居と呼称して演劇興行を公認した。

  しかし、宮地芝居から育った小芝居と大芝居との差別は厳しく、大芝居の役者は小芝居には出演はなかったし、定式幕はもとより、引幕、回り舞台、セリ上げ、花道、大太鼓使用等、舞台設備も許されなかった。 従って、引幕の使用が許されない格下の芝居小屋や見世物小屋(小芝居)は上・下端に竿を付け、簾(すだれ)のように紐で巻き上げ下げする緞帳幕を使用していました。これらの小芝居を「緞帳芝居」、出演する役者を「緞帳役者」と格下を指す言葉で蔑称していました。

それについて、逸話が…。
明治44年3月開場した帝国劇場略して帝劇は渋沢栄一、大倉喜八郎と言った大実業家連の出資で建った最新設備を誇るルネサンス様式のハイカラ大劇場で、男の劇場案内人を廃止して全て女給仕人にし、座席を椅子席にし、切符制度で席番号を決め、また、女優や西洋音楽技芸員を養成すると言った先端振りで、当時のハイカラ淑女をして、「今日は帝劇、明日は三越」と、その観劇を見栄ばらせたそうです。
 また、この劇場の座付役者となった沢村傅次郎(訥子)は、もとは明治30年、小芝居の浅草座で初舞台を踏んでいることから、大芝居の役者達から名題となった今でも「緞帳役者」視されていました。 ところが、舞台機構に斬新な形式を採用した帝劇では、古めかしい引幕を廃止して西洋式の緞帳を採用した事とて軽蔑されて来た訥子は、それ見た事かと大いに溜飲を下げたと言う。  事だったようです。

 今でこそ、緞帳と言えば贅をこらした開閉幕ですが、定式幕はむしろそれに従属した格好になってしまいました。 「緞帳」のルーツは歌舞伎の伝統を残す格式ある幕、定式幕でした。

 明治11年(1878年)新富座が日本初のプロセニアム舞台の大劇場を建て、ここからが大劇場での緞帳使用の始まりと言われております。

機会があれば、緞帳の話 次回へつづく…。

引用資料:
暮らしの装飾 1977年6月号        
ウィキペディア       
緞帳の歴史案内ホームページ

文責:野々口 悟


037.織物の産地で

 播州織の産地西脇で生まれ育った私は、物心がついた時から近所のほとんどの家が何らかの糸へんに携わっている環境の中で育ちました。近所には織物工場やかせとり工場があり、遠方から若い人たちが大勢働きにきて人口も増え活気ある街だったのを思い出します。その中で私もファッションに興味を持つようになり、いつしかデザインの世界へ進んで行きました。

 大阪で二年間働きながらデザイン学校にも通いましたが残念ながら卒業には至りませんでした。ただ西脇には先染め織物のデザインスタジオがあり、独特の描き方をポスターカラーで色合わせをして紙に織物の柄そのままを描くという先染めテキスタイルデザインの技法を覚え、今の事務所を立ち上げはや36年、あっという間の様です。  

  今思えばまだ産地も潤い輸出物の全盛期、依頼も多くその中で叱咤激励されながら織物の奥の深さを教えられてきた気がします。これは産地ならではないかと、昨今繊維産業自体が日本から激減し、この産地も同様で過疎化が進んで 若い跡継ぎが減っています。しかし何とか踏みとどめようと頑張っている人達をみると、まだ何か出来ることはないかと言う思いにかられます。ガンバレー がんばろう。  

  そんな事を考えていたところ、偶然にも取引先から大学で先染めの織物の講師をしてくれないか?とのお話が、仕事を教える事はしてきましたが、人前で講義なんてしたこともなかったので考えました。でも自分にとってももう一度織物を見直す良い機会かもと思い受けることにしました。やはり今まで自己流で見たり聞いたりで理解していたつもりのところ、人に理解できるように話すには私自身がよく理解していないと分かってはもらえない。上半期だけの時間でどれだけ理解してもらえるか今年は手探りで始めた新前ですが、若い学生たちの質問に答えながら教えられる事も多いです。少しでも織物を理解し今後に役立ててもらえればと思って来年度用に資料を見直しています。

Made in Japan の製品の素晴らしさをもっと知ってもらいたいですね。

文責:國米 利美

 


036.直線裁ち・縦書き・時間と 暖簾

 徐々に視聴率を上げているNHKの連続テレビ小説「あさが来た」ではいつも暖簾の風景を見ることができ私には興味深い。幕末から明治初期の設定ながら、江戸時代から続く商家の店先の風景がよくわかる。水引暖簾、長暖簾、太鼓暖簾、床暖簾など朱や若葉色など鮮やかな色の暖簾が多いのは時代考証なのか演出なのかさて? 意外に白地の暖簾が見られず、現代と比較すると不思議に感じるが。かつての大店が集まる界隈は、若い女性の染の着物同様に相当に華やかであったに違いない。

 先日そのロケ地の一つである奈良県北西部の今井町を歩いた。往時の街並みがよく残り、道幅や庭の作り、屋根の傾斜やうだつに歴史を感じる。そして家先に暖簾が揺れているとそれだけで町に潤いが生まれ、茶系とグレー系の空間に鮮やかな彩が映え、商いや生活のいぶきを連想させてむしろ安心感をおぼえる。

 ところで先日9月のTTcafeのときに着物は何故直線裁ちかということが少し話題になった。その理由として、洗い張りのあと縫い直しをすることが前提となること、体格の違いによる寸法調整がしやすいこと、着物で使ったあとに布団など別の用途に転用する場合も生地の無駄がないことなどの合理性がよく言われる。その他に、時として衣桁に掛けられた美しい着物は部屋の重要な装飾ともなったのはやはり直線裁ちなればこそ、である。これは平安の昔から現代も使われる几帳などの伝統か。

 先ごろの伊勢の神宮の遷宮で真新しくなった内・外宮に参拝したとき、和妙(絹)と荒妙(麻)を織る神社があってこの祭りのため神に供える新しい布を織る場所と役があることを知った。供えられた後のその布がどう扱われるのかは残念ながら聞きそこなった。古い昔から供えられてきたのは食物であり布だったが、他でもないこの白い布であることにどういう意味があるのだろう・・。ともかくも正宮の手前に立つと縦に5連の白い布のその向こうにおわす神を感じる。暖簾がもし横に繋がったものなら人が通り抜けることは難しいのでタテに繋がったものになるのは当然であるが、このことにも日本の伝統があるのではないだろうか。神社や相撲の興行でみられる幟も縦である。中国から伝わった漢字が縦書きであり千五百年来最近までずっと縦書きの生活であった。この原稿を書いているのは横書きであるが私はいまだに文章を書くのも読むのも縦書きのほうがしっくりくる。

 柏木博に『「しきり」の文化論』がある。そこに「時間をさえぎる」というくだりがあるが、腑に落ちた(と考えている)事がある。例えば壁は視覚も空間も音も遮るが固い構造物はその傾向があるのに比べて、布は柔らかく、暖簾はおよそ上部しか繋がっていないので少しの風で動き事情が違う。視線も見えるような見えないような状態、音はほぼ聞こえる、つまり気配が伝わることで場はいつも共有しているということである。そのことが「今」のみでなく、布の向こうの視得ない何か、その何かの時間を超えた、時間とともに動く物語さえも連想し予感がさらに期待を生むのだと思う。暖簾は結界の美といわれるゆえんもここにあり、見えない線を引くがすべてを遮っているわけではない。このことは暖簾を考えるときに重要である。

 白川静の「文字逍遥」の漢字の諸問題のなかにも「形」はなるべくして成るというようなことが書かれており、このコラム11で中沢新一 著「アースダイバー」が紹介されているが、今なお古くからほとんど形の変わらぬ暖簾があちらこちらで見られるのも『必然』ということか。

 最近、3連の暖簾の中の一枚が短い凹をさかさまにした形の暖簾を大阪でも京都でも東京でもテレビドラマでも見るようになった。ここ数年でも繁華街の暖簾の数は少しづつ増えているが、良し悪しは別にしてどんな新しいものが出てくるのであろうか。

 繊維業界が勢いを失ったといわれて久しい一方、世代交代も契機になったことであろうか、各地でテキスタイルデザインや企画開発コラボレーションに新しい動きが見える。期待が膨らむ。暖簾についても前述の直線裁ち、縦書、しきりなど生活にあたりまえに溶け込んでいる要素に実は変化の兆しが多くある。テキスタイルの各地のそんな動きのように次世代につながる「暖簾」の展開を切望し自分もその渦の中に居たい。

文責:板東 正

 


035.あまりの寒さ でも笑ってしまう!

成田から飛行機に乗り、2~3本の映画と機内食そして少しの睡眠、森と湖が広がるフィンランドへ。自然を愛し人間も自然の一部であると言う生命観を育んで来た国。 

遠くて近い国 フィンランド

日々の生活の中、食器や家具調度品、もちろんサウナにログハウスも、暮らしを助ける森林の恵み。自宅サウナのベンチには麻織物が敷かれ、カタヤ(檜)の香りでリラックス。もちろんお呼ばれサウナにはネーム入りの手織りマイファブリック持参。

私達、日本の生活の中で専用の手織り布を持ち、繰り返し使う習慣はあるかしら?

嬉しい時その喜びを味わい、また心折れる疲労の日をそっと癒してくれる私だけの布。 

木綿文化から羊毛 化繊 新素材。木、紙、土からコンクリート、ハイテク素材は機能的役割、構造的合理性を提供してくれた。しかし、1960年世界デザイン会議にて提言された、「山、水、草、木、紙、石、鉄 すべての素材は固有な価値と自らの宇宙を持っている。デザインにとって重要なことは、素材を支配することではなくてそれぞれの価値と宇宙に即した表現と位置とを与えることである・・」この言葉に感銘を覚えたフィンランドでの暮らし。

生まれた場所、環境、仕事など自分に与えられた人生、そして今生きている事を織り合わせ自分の存在を位置づける。それがより豊かな日常に彩りを与える。

サウナで体の芯まで温まり まだまだ,おしゃべり足りない友人と零下20℃の森へ!  棒状に凍りついたタオルで チャンバラごっこ。シャボンはデッキに落ちる前に透明の氷の玉となり 指で触れば跡形もなく・・・自然とひとつになった関係 衣 食 住そして人々の優しさ、ふれあいの大切さ。9月にはもうすでに5℃になる、そして暖炉には火、素手で触れないドアノブ、白髪のように凍る眉毛・鼻・耳は、ちぎれる程痛いけど、心豊かに笑って過ごせる私の生活、温かい故郷フィンランド。

どうぞ、マイファブリック持参で訪れてみては? 

文責:眞田 玲子

 


034.自分の立ち位置

大学でテキスタイル・デザインを学んで卒業し、スポーツアパレル会社へ就職、バブル全盛の頃に、ものづくりの基本をしっかり叩き込まれました。当時どの会社にも余裕があり、その余裕は人材育成に生かされていたと、今は感謝で一杯です。
バブル期を否定する人は多いですが、僕は当時の状況にとても感謝しています。一新人社員を現場教育と言うことで、様々なメーカーが食事付きで2週間もホームステイ的な研修を受け入れてくれました。
岐阜の丸編みメーカーから和歌山の縫製メーカー、新潟のヨコ編みメーカーetc..
お給料を頂きながら勉強させてくれる、そんな贅沢な時期でした。それは、まだ何色にも染まっていない状態の私を、繊維のものづくりの楽しさに染めてくれました。

僕は性格的に、置かれた状況で何を出来るか?を考えて動く人間だと思っています。
だから与えられた研修巡業ではいろいろと身に付くことが多く、今の自分の根幹を設計してくれた当時のみんなにはとても感謝しています。無から何かを生み出し、リーダーシップを取るタイプではなく、一歩下がって状況を確認し、その状況に合わせながら今自分が出来る事は?を考えるタイプみたいです。
まさに性格は持って生まれたものですね。過去を振り返るとそう感じます。

大阪繊維リースセンターの社員として動いた20年間は正にその性格が功を奏した仕事でした。 就職当時、ド素人の僕にとても丁寧に、ものづくりを教えて下さった産地企業の方々に対して今、出来る事? 身につけてくれたものづくり魂を活かせる術は? どんどん衰退していく産地を目の当たりにし、何をすればいいのか「自分流は何をどうする?」を考えて接してきました。

リソースセンターが無くなり、その使命を僕が引き継いで早5年。 繊維産地の状況はじわじわと厳しさを増してきていますが、人々は明るく元気です。
20数年前に僕に色々と教えて下さった時と変わらず、ものづくりには終止熱心で、常に探究心を持っておられます。
どこの産地も世代交代が進み、今前線で活躍している社長達は、僕とほぼ同世代が多いのもいい感じですね。
そんな産地の人は皆いい人ばかりで、楽しく仕事をする環境があるから余計に頑張ってしまいます(笑)
「産地メーカーのコーディネーター」という僕の今の立ち位置を作ってくれた人達に、精一杯何が出来るか?
その産地を元気にするためにどうするか? 今、僕はそんなことを考え、毎日頑張っています。

写真は、9月に開催された東京ギフトショーで、大阪・泉州産地コーディネートをさせて頂き「ベストディスプレイ大賞」で 準グランプリを受賞させて頂きました。

文責:尾原 久永

 


033.伝統と新たな感性の融合

 伝統的工芸品と称される分野がある。長い歴史の中で培われ、地域の人々の生活と密着しながら受け継がれてきた工芸品。何となく職人気質で高価なもの、若者に受け入れにくい印象だが、これら日本の文化に魅力を感じ、職人仕事に興味を持つ若者が増えてきているように感じる。
身近なところで、滋賀県の伝統的工芸品である正藍染めに出会い、藍染の魅力にとりつかれた若者たちがいる。「ノラふく」というかっこいい野良着をプロデュースしている。
ノラノコという活動をしているメンバーで、自分たちの手で「つくる」ことを通して、音楽を奏でるように、自由に愉しみながら、生きる力を育て、自然に寄りそった暮らしを探る集団。
このような生き方を実践し、お金は無いが豊かに暮らす若者が私の周りには増えている。

彼らは自然農でお米や野菜を育てている。農作業もお洒落にかっこよく、そんなノラノコからうまれた藍染の服を「ノラふく」と呼び、静かなブームを呼んでいる。ノラふくのファッションショーを観て、そのかっこよさに着てみたい衝動に駆られ、可能性を強く感じた。
トレンドとしてのかっこ良さとは別のオーラを感じた。

若い感性と伝統工芸の出会いが、程よい化学反応を起こした。彼らにとっては全くの新しい世界。 実際に私も藍染めをするために足を運んだ。約180年に渡り守られてきた藍瓶から醸し出される色彩、染場の匂いと空気感は感動的。若者が、ここに通い職人の感性と交わり新しいムーブメントが生まれていくことが嬉しい。80歳を超えた職人が、全くの外部からの若者を受け入れた覚悟が嬉しい。次代に繋がる予感がする。

自分で丁寧に染め上げた藍染の服を着ると、不思議と守られているような安心感がある。愛着を持って永く着続けるに違いない。 このように職人との交流の中で技法の本質を理解し、伝統に取り組む若者が増えることを願ってやまない。それが若者たちの楽しみから始まったとしても、結果、売れていくという仕組みになることを期待したい。
今、彼らは藍を育てることを始めたらしい。技を伝授し、伝統の継承へと繋がっていってほしい。

彼らの思いと同じく、消費のためのものづくりをしたくはない。してはいけない。作り方、買い方を変えていかねばならない。意識と知識を変える、社会価値変革。共感できる人から、コトから始まっている。

身を守るための布から始まった衣。現代の身を守る衣とはどんな要素のものなのかを考えた時「ノラふく」を身に纏うノラノコ集団の姿と、その先の未来に求められる衣の姿が重なった。

文責:北川 陽子

 


032.TDAの会員が参加した国際展と交流活動

 TDAはデザインを中心として日本の繊維産業と繊維文化の発展に貢献する団体として創立され活動していることに刺激を受け、2011年に入会致しました。最初企業へ就職しましたが、その後大学教育に参与するようになりました。現在、倉敷において繊維産業と関わりながら、教育を基盤として活動しています。倉敷児島の繊維関連企業の方と関わる機会も多く、産地からのからの発信として、デザインだけでなく、アートや日本の伝統染織と融合しながら、広く生産に関わることが多くあるように見受けられます。そのような中でファイバーアートの新しい分野にも触れました。

 世界を展望してみますと、テキスタイルの分野もデザインとアートの領域がクロスオーバーしてきたように思えます。このような動向の中で企画された “FIBER FUTURES-Japan’s Textile Pioneer-“ 展や”CONTEMPORARY FIBER ART MINIATURE” 展は日本にいる私達にとって大きな魅力であり刺激となりました。
 この両方の展覧会とも海外からの要請により日本で企画することになりましたが、日本においてコンペティション方式で選出されることになりました。前者は大きい作品で、最終的に選出されたのは30作品で審査委員には現代美術評論家の建畠晢氏(元国立国際美術館長、ベニスビエンナーレや横浜トリエンナーレをキュレートされた)、アートディレクターの北川フラム氏(越後妻有アートトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭や多くのアートイベントを企画)、ジョー・アール氏(元アメリカボストンミュージアム東洋部長、元ニューヨークジャパンソサエティギャラリーディレクター)等が担当されました。

 FIBER FUTURES 展はニューヨークで立ち上げ好評を得てよりサンフランシスコ展を経てヨーロッパに渡りフィンランド、デンマーク、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、フランス等を巡回展し、2015年5月〜7月パリの日本文化会館にて開催されましたが10月にはオランダで開催されます。嬉しいことに、それぞれの地で高い評価を受けました。
 ミニアチュール展の方は20×20×20cm以内の小作品50点ですがこれもスロバキアを出発点にリトアニア、オーストリア、今年2015年3月には スペインのサラマンカ大学付属 西日文化センター、通称 美智子皇后のホールと称されるゆかりの会場で展示されました。今後もヨーロッパ、アメリカ等で巡回される予定になっています。この展覧会も高い評価を得ています。
 展覧会と同時に日本の文化を紹介するイベントやレクチャー、ワークショップなども企画し各地で交流活動をしています。本当にクリエ—ションの世界には国境が無く、人間の心と心の絆を繋げることが出来ることを実感として体験しました。私も日本の伝統である和紙の紙漉を応用し、ランプシェードを作るワークショップをデンマーク展にて担当しました。3つの日本の手漉和紙技術は2014年にユネスコの無形文化遺産に登録されています。デンマーク展では展覧会場にて食事会の招待を受け、現地特有の料理のもてなしに合わせ、キャンドルの明るさで演出された空間はヨーロッパならではの素敵な場でした。偶然にもワークショップの制作物が和紙原料を用いたランプシェードであり、日本の和紙文化と異国の文化が融合したようにも感じ取れました。参加者は思い思いのランプシュードを制作し、言葉を越えて共感する楽しさを味わいました。

 わたなべひろこ氏も「日本の包みの文化と風呂敷」や、「絞り染め」のワークショップ等をし、定員を越える人が押しかけ楽しさを分け合っていた様です。これ等の展覧会活動にTDA会員が沢山参加しているのに一般に知られていないのが不思議に思われ、私が紹介の寄稿をしたいと思う動機になりました。
 FIBER FUTURES 展には新井淳一名誉会員の他に荒川朋子氏、弥永保子氏、熊井恭子氏、小野山和代氏、吉岡敦子氏、わたなべひろこ氏に私、田中孝明(元会員の須藤玲子氏、田中秀穂氏)等が参加しています。
 又、ミニアチュールの方には上記メンバーに加えて、長沢桂一氏、奈良平宣子氏、八代利江子氏、高橋友顕氏、渡辺三奈子氏、牛尾卓巳氏等 あわせると14人もの会員が高い評価を受けている海外展に日本を代表して参加しているのです。  TDAもデザインと云うくくりだけではなく、インテリアもファッションもアートもクラフトも 包含して、広く人間生活を支える環境の中の大切な要素として、クリエーションし、それぞれの場で繊維産業や繊維文化の高揚と発展に貢献してゆけばよいのだと思います。私は今 あらためて会員としての自覚と自らの夢を重ね合わせて未来を見つめ直しているところです。

最後に写真を少し紹介します。

文責:田中 孝明

■FIBER FUTURES展の会場写真  
スウェーデン展会場より  スペイン展会場より
   
■ミニアチュール展会場写真  
スロバキア展より オーストリア展より
   
■ワークショップ風景  
   
和紙原料によるランプシェード作り(田中孝明)
   
「日本の包みの文化と風呂敷」・「絞り染め」のワークショップ(わたなべひろこ氏)

031.International Fiber Recycling Symposium 2015 in San Francisco

6月8 ~10日サンフランシスコ州立大学で、International Fiber Recycling Symposium が開催された。
このシンポジウムは、英国・アメリカ・日本の研究者が中心となってつくられたもので、今回で5回目となる。産業と学術研究を融合して、持続可能な社会に向けて、循環できる素材としての繊維、そのあり方やリサイクル方法を探っていくものである。衣料・インテリア・産業資材等様々な分野で使われている繊維のリサイクルについて20余りの研究発表がおこなわれ、私も研究発表に参加した。企業の方の参加も多く、スイスに本社を持つ世界最大手のリサイクル企業アイコレクト社や、リーバス社、スピード社等からも参加があり、アメリカらしい白熱した質問タイムとなった。

現在、日本では年間200万トンもの繊維廃材があり、そのうちリサイクルされているのはわずか2割、約8割が焼却等で処分されている。この現状はアメリカや他の先進国でも近い状況にあり、繊維のリサイクルは世界レベルで考えていくべき課題だと実感した。

また、シンポジウムに合わせて繊維リサイクルアイデアコンペティションも開かれ、日米両国の入賞作品から最優秀賞が選ばれた。
一般部門はLing Zhang & Chanmi Hwang、Iowa State University (USA)
タイトル:The Beauty of Gothic
(2枚の皮ジャケットと16本のシルクネクタイからゴシック建築をイメージしたドレスの制作)
まえかけ部門は Yoshiko Odamaki,、Tokyo Kasei University (Japan)(アメリカに直接応募分)
タイトル:Origami Apron(ふろしきを用いて折り紙技術でエプロンを制作)
一般部門での優秀賞は廃棄されたネクタイを使って重厚につくり込んだドレスが圧巻だった。また、まえかけ部門では1mmの無駄もない折り紙技法を使った作品は日本の洗練された美しさを感じた。

文責:内丸もと子


030.「TDAコラム」

大阪でテキスタイル企画事務所をはじめて30年。
関西近辺の色々な産地で仕事をさせてもらいながら、未だに驚きと発見があり、話を聞き、現場を見るたびにワクワクする。
何年仕事をしても益々繊維に触れることが楽しくなる。
日本の繊維の伝統技術は歴史と共に長く、産地へ行きゆっくり話し込むと次々と語り継がれる深いもの語りが出て来る。
歴女(れきじょ)としては、面白くて身を乗り出して聞いてしまう。 そんなもの語りや伝統の技術も当事者達は普通の事として「みんな知ってる事やわ!」と言われるが、皆と言っても、「いやいや、それは地元だけで、今では全国版ではない時代ですよ」と言うとがっかりされる。
問屋、メーカーの流れの中で陰になっていた関西の山ほどある繊維のものづくり産地。
絹、麻、綿、ウール素材を使用し、糸を撚る、織る、編む、染める・・・
地元で自慢の伝統技術は、近くの道の駅でひっそりと並んでいる。中心は、やはり食である。
食文化の見直しで、食育(しょくいく)が進み、子供達に料理人が話したり見せたりすると、驚きの眼差しで「へぇ~」を連発すると言う。確かにスーパーマーケットに行けば、骨抜きの魚の切り身がパックに入って並ぶ時代、考えればテキスタイル分野でも同じようだ。
若いデザイナーが、1300年の歴史ある絹織物、丹後ちりめんを「何それ?ちりめんじゃこですか?」と言ったとか…真綿(まわた)を綿(めん)と書くからコットンだと思っていた…とか、笑えない笑い話が山ほどある。嘆いてもしかたない。
今こそ時代の流れ、農家へ行き家庭菜園を楽しんだり、お茶カフェで日本茶の入れ方を学び、味わう・・・
テキスタイルも布育(ぬのいく)で楽しむことが良いかもしれない。
日本で育った蚕(かいこ)から真綿をひく作業が、若い人に継がれている。
閉鎖が決まった工場の織機を買い取り、技術を残したいと挑戦する三代目がいる。
藤の木を育て、古代から伝えられる糸づくりをし、藤布を織る親子がいる。
まだまだ各地に伝えてくれる若者がいる。
色々な産地が集まり、活動する『テキスタイルマルシェ展』。産地直送の販売会も何とか5年になる。
大阪や東京の会場で出展社の2代目、3代目の社長がいきいきと布や糸の説明をし、それをニコニコと楽しんで聞いてくれるお客様がいる。
これから、ゆっくり、じっくりと見直す楽しい時代のように思えてきた。

文責:朝比奈 由起子


029.「思いつくままにいくつか~」

① テーマは「共存共栄」
このテキスタイル業界で長い間生きてこられたのは、産地の産元、紡績屋、機屋、加工場などがあったおかげ。 これからも、産地が存続してもらわないと困る!そうでないと後世へ引き継ぐこともできない!そんな思いで、今改めて「産地との共存共栄」を、知恵を出し取り組んでいく必要があることを強く思います。

② YOUは何しに日本へ?
今日本は、観光立国を目指していますが、外国人は日本らしいものを求めます。日本人が気づかない事や知らないことに意外と興味を持ったりします。このことは、外国の観光客が増えていけば、日本人も今までとはまた違った見方が芽生え面白いものが生まれてくるのではないか。

③ 沖縄LOVE
リゾート目的でもありますが、紅型、久米島紬、ミンサー織、八重山上布など布地文化が豊かなことと、独特の音楽が好きで毎年訪れています。 昨年は、喜如嘉の芭蕉布を訪れましたが、若い人が数人いて頑張っていました。聞くところによると、結構入門したい若者は来るようですが、沖縄の人を優先するとの事。それにしても、芭蕉を栽培する畑を耕すところから始まって、完成までの気の遠くなる長い製作工程は根気のいる仕事で、自分には無理と思ってしまいました。

④ 田舎ですが、 最後に、私が住んでいる「狭山~川越エリア」のアピールで恐縮です。
・狭山は、日本三大茶の一つ「狭山茶」が有名で、茶畑が点在しています。5月は、新茶の季節。ほんとうに茶畑の緑がきれいです。
・川越は、情緒あるエリアがあって、近年観光客で大変賑わっています。着物が似合う街として、毎月18日は着物の日。着物を着ていると、いろいろな割引やサービスが受けられます。特産の「川越唐桟」という細かいストライプ柄の綿織物で着こなすと粋!決して古さは感じずモダンなストライプです。
さつまいもの産地で、おいしい老舗のうなぎ店も沢山ありますよ。
都内から日帰り観光ができますので、息抜きに遊びにいってみてはいかがでしょう。

文責:内田 滋


028.必要な時にすぐ取り出せる時代…
五感はどこへゆく?

 2015年4月に、FOREOという海外の会社からメイクアップマシン「MODA(モダ)」が発表された。その発売プロモーション映像をネットで見て、「ついにここまで来たか」とため息が出た。その製品はたった30秒で、ベースメーク、ファンデーション、チークやアイシャドウ、口紅まで施してくれるという代物だ。このニュースをご覧になった方も多くいらっしゃるであろう。   
そのメイクまでの流れは、
①スマートフォン(専用アプリ)で自分がなりたいメイクアップの顔写真データをチョイスする 
②BLUETOOH機能でMODA 本体に転送する 
③顔をMODA マシンに、覗き込むように入れる 
④メイクアップ完了 
といった具合である。MODA専用の化粧品が使用され、安全性には配慮されているそうだ。まさに、3Dスキャンや3Dプリンティング、専用アプリを駆使した新時代のマシンである。プロモーションビデオを見る限りでは、新しいライフスタイルの提案ということなのだろうが、化粧をする時の「五感への刺激」や「沸き起こる感情」、「メイクの楽しみ」はあると言えるのだろうか?化粧 をするたびに向かう鏡の中に、弾けるような若さを見出す、あるいは、残酷な老いを自覚する、そんな一喜一憂の感情はどうなるのだろう?Wear a mask(仮面)なのか、自分でメイクを作り出すのか、こんな選択が出来る時代になった事を喜ぶべきなのだろうか。

 同じく2015年の4月に、信州大学の学長が新入生へ向けての祝辞の中で、「スマホやめるか?信州大学やめるか?」と述べたニュースは記憶に新しい。都心にあるリンゴマークのショップは相も変わらず、新製品を求める人々で賑わっている。この爆発的人気の商品のデザイナーであり、創業者のアメリカ人は東洋の禅(ZEN)に傾倒し、永平寺で禅を組むなどの体験から、デザイン発想をしたといわれている。それは、極限まで余分を削ぎ落としたデザインだ。今では、老若男女が1日中、スマホを握りしめている光景には何の違和感もない。生きていくすべのあらゆる情報が、電源をONにすればそろい、世界中に繋がる。必要な時に必要な情報を取り出し、瞬時に解決することが出来るのだから、24時間、多くの人々にとって必要不可欠なものとなっているのは確かだ。だが、その反面、本当の感情というものを表出させ、人とコミュニケ―ションすることは難しくなっている。せっかく、多くの人々が図らずもその場にいるのに、皆自分の画面を見て、指を動かしている。単語を送信できても感情の奥深さは伝わらない。信州大学の学長祝辞の真意は「リアルな人との繋がり」「自分で考え、創り出せる習慣の大切さ」だ。必要なものを取り出し、終わればまた絶対的な無が訪れ、自然と向き合い、己と向き合う、そんな「禅」の精神を愛した人がスマートフォンの創業者なのである。「空」という「間」を知っていた彼はもうこの世にいない。

 目まぐるしい変化の社会を生きる私達の感覚は、五感の偏りを生み出していることに気が付いているのに、誰もそれを止めることができない。画面越しに見ている文化が、ものすごい速度で、世界中を駆け抜けていく。 私達の五感は一体どこへゆくのだろう。

文責:松田 純子


027.華東交易会を終えて

去る3月1日〜5日上海新国際博覧センターにて第26回華東交易会が 開催された。
展示面積は11.5万平米に3,600社が出展し世界117カ国 から21,000名を超える来場者が商談のため訪れた。私(イング)がこの展示会への出展社をサポートし始め既に5年になる。

今年は3社のブースをプロデュース、内1社は5年連続である。その1社、BY UNICO HOMEは南京の外貿商社で社長はまだ40代、 とても前向きで研究熱心、毎年の市場調査も欠かさず、常に新しい素材開発や生地開発を進め多彩な商品提案、売り方提案をリアル店舗から通信販売までひろく日本向け輸出事業を順調に推移させ、お客様からの信頼も得ている。

取り組みにあたり初期より、デザインを含め知財や情報の価値、重要性をしっかり伝えてきたので、この価値を良く理解してくれている。
商標、実用新案、特許を日本で申請し、権利化しているものが多々ある もちろんBY UNICO HOMEも登録商標である
また、私が他社の特許を紹介しライセンス料を払い商品化した事案もあり、この商品は大手ホームファッションチェーンで年間約20万枚程販売されている。
一枚に付き$1でも$200,000のロイヤリティを支払ってる事になる。 中国企業は、なかなかソフトの価値を認め対価を払う事は少ないのだが UNICO社の様にソフトを理解し開発する企業が少しでも増えて欲しいものだ。

今年のUNICO社はフレンチリネンの先染め生地やサクワラン練り込みのニット素材、また、嵩高で保温効果のファイバーボール中綿などを開発製品化し展示した。ブースのデザイン、カタログ制作、モニターによるプレゼン動画などはイング上海のスタッフとUNICOのスタッフが協力し完成させた。
お客様の評判は上々の様でほっとしている。
来場されたお客様の意見を集約、検証し更なる開発、提案のレベルアップを 来年に向けスタートしたいと思っている

文責:株式会社イング 小川 久








026.布~雑感

(日頃文章を書くこともなく、WORDを使うこともめったになく、コラムのご依頼に、布についてポツリポツリと思いつくままに書いてみました。)

布を意識したのはいつからだろうか?布はあまりにも身近で皮膚感覚そのもの。おむつや産着は別として、改めて思い返すと鼻を衝く糊の匂いとともに、反物の山を思い出す。

東京で生まれ育った私の家は、ALWAYS三丁目の夕日の映画そのものの、ごく普通の公務員の家庭だった。明治生まれの祖母が針仕事をしたり、時には自分の着物を洗い張りしていた姿を思い出す。長くつなげた反物を木の枝に渡し、伸子(しんし)を1本づつ弓形に張り、小麦粉?ごはん?で作った糊を刷毛で塗り・・・竹ひごの先のちくりとした針の痛みや、糊刷毛のシャッシャッという軽快な音、狭い庭、陽だまりの暖かさの中で飽きずに眺めていた。

戦争を体験した世代のせいか祖母は物を大切にし、布切れをも捨てることは決してしなかった。祖母が亡くなり遺品から愛用の腰ひもが出てきて、それは5センチにも満たない小さな端布を継ぎ合わせて作ってあり、祖母の思いが感じられて泣けた。
その末娘の母も布や手芸が好きで、いつも針か編み棒を持っていたように思う。電車通園していた幼稚園の帰り道に、母は池袋のキンカ堂に寄った。(2010年閉店した。)ご存知の方もあるだろうが、その頃のキンカ堂はうず高く反物が積んであり、店員が少し高いところから大声で売り込みをしていていつも混んでいた。見上げても奥が見えないほどの生地、生地、竹の物差しのピシピシたたく音、鼻を衝く糊と染料の匂い・・子供には結構恐ろしい場所で、嬉々として生地を選んでいる母のスカートのすそを握りしめ、早く帰ろうよ、とつぶやいていた。反物の中で迷子になりそうで怖かった。

服は全て母の手作りで姉とおそろい、お下がりも着るので、同じ柄をずっと着ているわけだ。母はとても手芸が好きだったと見え、アメリカのNEEDLES WOMENSという手芸雑誌を購読していた。おしゃれではあったのだろうが変わったデザインが多く、母の手作りのヒトデやサンゴの刺繍の服は大人には褒められたが、私はみんなが着ているようなフェルトのプードルがアップリケされたスカートが欲しかったし、特にスモッキング刺繍いっぱいのワンピースは子ども心にも太って見えるようで嫌いだった。そんな母の横で裁ち落としの端布を欲しがって箱にためて遊んでいた。だから今でも小さな布が大好きだ。

美大に行き、陶器や樹脂もさわったが落ち着いたのはテキスタイル。布に包まれた時の不思議な感覚・・・ってなヤツが好きで、ツカエナイ、置き場もない、そんなものばかり作っていた。そんなツカエナイ作品?をちゃんと講評して下さった先生方には感謝している。

社会人になって2つの会社を経て、パリのデザイン会社へ、帰国後もテキスタイルの仕事にずっとかかわっている。

今は量産品の仕事が多く、使い捨てられてゆくのだろうと思いつつ、その布が誰かの暮らしのなかで少しの暖か味として存在して欲しいと願う。 布が好きで、反物の山に囲まれた感覚に立ち戻るのは幼稚園のころから変わらない。

文責:小沼 京子


025.インクジェットプリントに出会って

 私がインクジェットプリントを本格的に仕事に使うようになり、今年で10年になる。 それも、今の私を支えてくれている取組先メンバーがいてくれたからできたと思っている。 インクジェットプリントをこんな風に使えない?御宅の会社でできない?という新たな私からの課題に、その都度答えてくれる良き若者たち、会社の壁を越え、語り合い、激論になることさえあった。

もちろんインクジェットプリントはその前から使うことはあったが、紙出力がメイン、シートやフラグといった繊維に使うことは本当にまれで、まだまだシルクプリントや手捺染による幕のレベルの方が安心、安価であった。

そんなインクジェットプリントを本格的に使いたいと思ったのは、ビックサイトの展示会に行くたびに目新しい技術はないものかという私の好奇心の触覚に触れだした大型インクジェットプリンターの出現、それに使うメディア、それを付ける器具、使う用途の加速に目が離せないようになってきたことによる。

従来の大型の外壁フラグなどは強風や台風のたびに、危険な高所作業での撤去、復旧に高額がかかり、おまけに写真のような美しさもない。それがインクジェットによる出力に変わることで、多色を自由に使い写真のようなものも可能に、素材や器具を変えれば照明入り行燈のようなものにもなる。更にメディアにシートを使うことで、看板も落下の危険もなく美しい、照明入りのコルトンになり夜も美しい。ガラスなどに貼ればそれは安全に効果を発揮など・・・・いろいろな手法に生かせる。おまけにラミネート素材をホログラムに変えると、照明を当てることで想像以上効果を出してくれる。
これは今の私の仕事であるウインドウや看板、装飾に効果を発揮してくれるものになった。

ファブリックにおいても、先日のTDAのIPIPのような、今までにないような、シルクやコットンへのインクジェットプリントにより、より複雑な技法やかたちに合わせたプリントなど応用しだいによってたくさんの可能性を秘めたものになってきている。ロットも少なく、追加も簡単等々可能性はまだまだ広がる。

あとは、これをどんな素材に対応させ、何に、どう発展させていくか、特殊加工がさらにできるか等ファブリックのインクジェットに対してもシートのような展開が知恵の絞りどころとなる。インクジェットの未来は、まだまだ発展途上、頑張る楽しみがあると思う。

文責:武藤 豊子



024.東北の布の研究、調査から

 2013年度から4ヶ年計画で私のフィールドワークとして、東北の布の調査を実施している。  
 東日本大震災をさかいに、あらゆる価値観のリセットが行われ、自然エネルギーの見直しなど、さまざまなシステムの改革が必要とされている。その中で東北は、固有の縄文やアイヌ文化をルーツとする「アニミズム的、あるいは自然主義」の生活文化を今でもかろうじて継承している地域であり、その結晶としての染織品が細々と受け継がれている。これらの伝統染織品は厳しい自然環境の中、貧しい生活が清いとされる精神性に裏付けされ、とてつもない手間のかかる、人の想いの詰まったものばかりである。

 「刺し子や裂き織り」などは布を再生したエコロジーの精神がかたちになったものである。合理生を追求してきた現代社会が忘れていた「時間と手間をかける」ことの価値が、ここ東北の地では今なお生き続けている。今こそこれらの優れた東北の布の調査、研究を通じ、物だけでなく東北の文化や精神を背景としたものづくりの現場から、エコ社会の手本ともなる「現在、未来におけるも価値ある布づくり」を伝統染織や布を通じて探りたいという想いがある。

 かつての東北は縄文文化をルーツとし、北部においては、狩猟民族のアイヌ民族も生活していた可能性が高い。寒冷地で厳しい自然環境の中で自然を崇拝するつつましい生活の中で育まれた東北の布にスポットを当て、調査研究することが今必要ではないかと考えてのことである。東北の地は、沖縄や八重山などの南の温暖で小さい島々とは違い、非常に広大で険しい山河に囲まれており、厳しい環境のせいもあってか、今まであまり東北の染織品について調査、研究してきた研究者も少ないのが現状であろう。

 今回東北の布の研究、調査を行うきっかけとなったのは、私の本務校である金沢美術工芸大学のプロジェクト「平成の百工比照集収作成事業1」の染織品の収集であった。私は2012年よりこのプロジェクトの収集にあたってきたのだが、このプロジェクトは2009年よりスタートしており、染織文化の華やかな近畿、関東、沖縄地方は、私の関わる年にはほぼ収集を終えていた。まだ収集を終えていない地は、九州地方と東北地方であり、2012年の夏約2週間で東北の主な染織産地を回ることとなった。この収集の旅は、新しい発見の連続であり、東北秋田の地で生まれ育った私にとっても衝撃的な布との出会いであった。

 調査にあたり、まず東北の染織分布から考え、私は3つの地区に分け順々に調査することとした。まず1つ目は、東北の中でも比較的温暖で豊容な土地もある福島地区と宮城地区。二つ目はとても険しい山河に囲まれ、気候もきびしく穀物の生育も厳しい岩手、青森地区。三つ目は積雪が多く厳しい寒さの地であるものの、穀物に適した豊容な土地、北前船文化の恩恵、鉱山が多々あった等特色ある秋田、山形地区に分けて調査することとした。

 今までに、福島、宮城、岩手、青森についての調査を行ってきたが、残念なことについ最近まで生産されていたところが廃業したという事が、この調査中でも何軒かあった。今の段階では「東北の布」を通じて多くを語ることはできる段階ではないが、今までの調査を通じて、やはり同じ東北人としてこれらの仕事をもっと知ってほしいし、これらの仕事の価値を、是非とも現代、未来の人々に理解してほしいという想いが、ますます強くなった。

 この3年間で現地に出向いた産地、工房の布をリストアップしておく。会津木綿、会津型、からむし織、川俣羽二重、以上が福島。白石紙子、常磐紺型、正藍冷染が宮城。ホームススパン、さき織り、亀甲織、南部古代型染が岩手。南部菱刺、津軽こぎん、南部裂織が青森、秋田黄八丈、ぜんまい白鳥織、浅舞絞りが秋田、羽越しな布、紅花染め、置賜紬が山形。以上がこの3年間で訪ねた産地、工房であるが、後2年で一通り周り終える予定である。

 柳宗悦は、1948年6月に刊行された著書『手仕事の日本』の中で東北の仕事を次のように書いている。「東北人の暮らしには非常に富んだ一面のあることを見逃すことが出来ません。そこでは日本でのみ見られるものが豊に残っているのであります。従ってそこを手仕事の国と呼んでもよいでありましょう。なぜかくも手の技が忙しく働くのでありましょう。思うに三つの原因があって、それを求めているのであります。一つは中央の都から遠いため、かえって昔からの習慣がよく保たれているからであります。このことは郷土固有のものを暮らしに多く用いることを意味します。作るものに外国の品を真似たものをほとんど見かけません。そんなものの存在を知る機縁がないともいえましょう。それらの土地の伝統は根強いのであります。二つめには地理がそれに応じるものを作らせるからであります。その気候や風土は多くの独特なものを求めます。雪国の人たちは雪に堪える身形や持物を用意せねばなりません。それらのものは都からは運ばれて来ません。人々は色々なものを作って、自分やまた家族の者のために準備せねばなりません。しかもそれは実用に堪え得るように念入りに作ることを求めます。このことは手仕事を忙しくさせ、またその技を練えさせました。仕事に着実なものが多いのはこのためであります。三つには雪の季節が長いことに因ります。自から家に閉じこもってその長い時間を手仕事で過ごします。野良で働くことは封じられても、家の内には為さねばならぬ仕事が待っているのであります。これあるがためにも憂下な冬の長さも、早く過ぎてゆきます。雪と手仕事とには厚い因縁がひそみます。これこそは北国に様々な品物を生ましめる一つの原因であります。これらのことを思うと、東北の国々になぜ固有の品が豊にあるかを解することが出来るでありましょう。今まで何かにつけ引目を感じていた東北人は、かえって誇りをこそ抱いてよいと思います。後れていると思う品物がむしろ新しい意味を以て活き返って来るでありましょう。」
  この『手仕事の日本』は第二次世界大戦中に書かれたものであり、ここに書かれている東北の手仕事についても、戦前の現状を述べたもののはずである。しかし、驚くべきは半世紀以上前に書かれたものであるにもかかわらず、東北の工芸品(民芸も含む)に対する感想は、今とあまりずれは感じない。

 冒頭にも述べたが、近年になって失われた手仕事や産業もあるが、ITが発達し、自由に迅速にあらゆる情報を得られる今、そして先進国の日本において、このような仕事が残っていることは奇跡である。これは東北の地であるが故なのであろう。先程の柳宗悦の文の終わりに、「後れていると思う品物がむしろ新しい意味を以て活き返って来るでありましょう。」とあるが、まさにこれからの時代、東北の仕事や品々が新しい意味を以て、新しい価値観を生み、未来へ向わせてくれることを願い、今後も調査にあたりたい。

参考文献
『ものと人間の文化誌65・藍 風土が生んだ色』 竹内淳子、法政大学出版局、1991年
『エミシ/エゾからアイヌへ』児島恭子、吉川弘文館、2009年
『改訂 エミシ研究 蝦夷史伝とアイヌ伝説』田中勝也、1998年

引用
『手仕事の日本—柳宗悦著』発行者:山口昭男、岩波文庫、1985年、P57〜59の文言を引用

文責:大高 亨


023.子供の眠りと繊維製品

「子供の眠りが危ない」といわれて久しいが、研究機関の調査によると日本の子供たちは発育期に世界で一番眠っていない、のだそうだ。睡眠不足がもたらす体への影響は大きく、特に10歳~12歳までの子供に深刻なダメージを与えるといわれている。睡眠不足が続く子供の状態としては精神的に不安定、キレる、ガンそして高血圧、高血糖、肥満など成人病と同じような症状、脳機能の低下(記憶など)がみられるそうだが、そんな子供たちが大人になった時、心身共に健康な生活が送れるのか心配になる。「寝る子は育つ」は本当なのだ。乳幼児からの睡眠習慣は、その子の人生を左右しかねない大切なことなのである。

だが子供は自分で生活リズムをコントロールできない。眠らないのではなく、眠れないのだ。原因は様々…明るい夜、楽しいゲーム、昼間に外で遊ばない、塾や習い事で遅くなる、大人の時間にひっぱられる…など。もっと大人が管理すべきなのだが、残念ながら子供にとって睡眠がどれだけ重要かを知らないために「子供は疲れたら自然に眠る」と思っている人が多い。そして自分の子供が眠らない理由が分からずイライラ、つい叱ってしまい悪循環に陥っているのが現状である。

では繊維製品で「子供の眠り」を守る手助けができないだろうか?子供が眠る場所・環境はどうなっているのだろう?日本は住宅事情や添い寝という習慣等から子供が眠る場所が親と一緒のことが多く、明るかったりTVが付いていたりなど眠れない環境にある。また体温が高く汗かきの子供が親の寝具で眠ることも多いようだ。共働きで昼間に子供と遊ぶことが出来ない親に添い寝はダメ、とは言えない。独立した部屋を与えるのもなかなか難しい。一方、市場を見ると子供の発達や体質を考慮した子供用寝具や睡眠習慣を付けさせるための寝具はわずかで、選択の幅が狭い。子供はすぐに大きくなるし、汚すからイイ物は必要ない、安くないと売れない、ということなのだろうか。が、繊維製品の企画・モノ作りに携わる一人としては「そこを何とか」して子供達にとって質の良い眠りがとれる環境を作りたいと思う。

寝具売り場で高価なムートンのマットにダイビングしてそのまま眠った子(店員さんは冷や汗もの)、自分の枕を自身で作って好きな柄のカバーを選び、とても嬉しそうに抱えて変える子などを見ていると「何とか」出来そうに感じる。触感を含めたデザインのチカラで眠ることを楽しむ環境作り=ハードルは高いがゲームやTVより楽しいもの、秘密基地のようなお気に入りのスペース作りが出来るのではないだろうか。寝具など繊維製品は触る、見る、使う、片付けるなど子供にとっては色々な事を感じ習得できる良い教材にもなる。そういう視点からも、子供の発達や体質の特徴を考慮し、心身の健やかな成長を手助けできる製品作りをするようにしたい。そして理想は、単にモノを作り売って終わるのではなく、眠りについての知識や使用した子供の様子など双方向の情報交換をしながら、子供と親にとってより良い繊維製品作りを目指すべきだと考えている。

文責:吉川 愛子


022.Big Catch Flag 大漁旗

ロンドンのアミューズメント関連の企業から学生に「Big Catch Flag」(大漁旗)のデザイン依頼がありました。新しいイメージの大漁旗をヨーロッパ各地でのイベントに使い日本の文化を紹介するとの趣旨です。
私の担当するビジュアルデザイン専攻の学生はシルクスクリーンプリントしか染色の経験がなく不安はありましたが、海外で作品発表できるよい機会だとお引き受けすることにしました。

大漁旗は元来、厳しい海の漁に出た船が浜でまつ家族や仲間たちに無事と大漁を知らせるために使われたものです。広い海と高い空のなかで遠くからでもよく見えるよう鮮やかな色彩と大胆な構図が特徴です。その絵柄は人々の祈りや願いをこめて縁起の良い鶴亀や鯛、七福神、日の出、宝船などが大漁の文字とともに用いられました。別名を「ふらいき」(福来旗、富来旗)ともいい、江戸時代後期あたりからの風習である萬祝着(まいわいぎ)の絵柄を踏襲しているといわれています。 (萬祝着とは大漁の祝いに網元から網子に配られた着物で、友禅技法による吉祥の柄を配した華やかなものです

残念ながら現在では大漁旗は進水式や新年の漁の時くらいにしか使われないそうで日常的にはほとんどみられなくなりました。ただ縁起物としてお店の装飾やスポーツの応援、結婚式や還暦祝いなどに使われることは増えてきています。

日本は40もの都道府県が海に面しておりそれぞれに漁港があります。4回生と修士の計20人が一人2点ずつ制作することにし、担当の県の生活風土や漁港の特徴などについて調べることからスタートしました。日本の各地を紹介するための旗となるよう、さらに各自のオリジナリティも感じられる作品を目指しました。  
学生は大漁旗を見たことがなかったため、全国青年印染経営研究会の紹介で船旗の得意な黒川染工場を見学させていただくことになりました。 大漁旗は基本的に注文生産のためすべて納品されてしまいます。染工場にも写真や下絵しか残っていませんが、染めの工程や技法は説明していただけるとのことで学生と見学にでかけました。工場は明石駅からさらに海寄りの場所で、天気のよかったせいか4月でも海の香りと明るい光に溢れていました。 実物をみることは無理だと思っていましたが、黒川さんは一度納品した旗を船主さんから借りてきてくださり工場内にたくさんの旗が飾られ一同大感激しました。

学生の制作技法は設備や納期の問題で本来の筒画きや型染めはむずかしくインクジェット出力を予定していましたが、見学で本染めのダイナミックな表現をたくさん拝見し、その力強い魅力に圧倒されどのように制作すればよいか本当に悩みました。  
例えば、大漁旗にみられる白線は染料の混ざりを防ぐための技法ですが同時に強い色彩のハレーションをおさえる役割もあり、それが大きな特徴と魅力になっています。 しかしインクジェット出力の場合に大漁旗らしさを求めて筒画き風の白線を使ってもそれは木目調のプラスチック製品と同じでフェイクな表現になってしまうのではないかと心配でした。  
解決のヒントは黒川さんの説明のなかにありました。一般的に筒描きは太い糊線も一気に引きますが、京都では太い線は糸目(細い糊目)をおくこともあるそうです。これは、デザインソフトのillustratorの「線のアウトライン化」と同じ考え方で、白い線を色面として認識していることにほかなりません。なので、白い線は必ずしも白の必要はなく、幅も一定でなくて構わないのです。  
学生がデザインするにあたり、大漁旗本来の意味や特徴は失わないように気をつけながらも、白線を色面としてとらえ、デザインの要素として活かしたければ使えばいいし、使わない表現であってもいいことにしました。手描きのマチエールなどインクジェットならではの表現を活かし新鮮なイメージの大漁旗になるよう制作を進めました。

1カ月後、たこや鯛が明石海峡大橋とともに描かれ、境港では妖怪たちと蟹が登場するなど自由なアイデアのある40点のデザインが仕上がりました。 確認のため1/2サイズのペーパープリントをロンドンに発送したところ大層気にいっていただき、直営のベーカリーショップで展示されました。スタッフやお客さんの評判もよく、買い取り希望がかなりあったそうです。すべてのデザインにOKがでたので、京都の印染会社、(有)スギシタさんの協力で1400×2100の大きさで両面プリントを行ない、通常は旗の左辺のみにつけるハトメを、左辺と上辺、および右下につけました。縦横どちらの方向でもかけられ、壁面展示にも対応するためです。

今後はロンドン、パリ、マドリードでイベントが予定されていますが詳細はまだ未定です。大漁旗をウエアやグッズに展開する計画もあり、またご報告できる機会があればと思います。

文責:滝口洋子


021.ふとしたことから暖簾を調べ

ふとしたことから「暖簾」を調べ始めて5年以上が経つ。先輩の鈴木洋行氏に勧められて少しずつではあるが大阪・京都・奈良・伊勢・東京・真庭・川越などを取材し資料をあたっている。地域によってデザインに傾向があり当初は意匠に目を取られていた。やがてその空間や、まつわる歴史が見えてくると一枚の布が秘めている文化にも興味が湧く。今は何処に居ても目が暖簾を探している。

それにしても暖簾は不思議なものである。室町時代には氏族や商家の印や紋が描かれ、江戸中期にはかの有名な越後屋によって宣伝広告メディアとして飛躍した。信貴山縁起絵巻には絞り染らしい半暖簾が見えるが、おそらく平安時代から形態はほとんど変わらず今日に至る。減少していた暖簾だが都市部では飲食店増加に伴い少し増えているようだ。フレンチやイタリアンでも暖簾を掛ける店を散見できる。すこし変わったものもある。革製のもの、丸竹や割いた竹を、テニスボールほどの木の玉や丸太を連ねたものまで有る。その発生や家主の思い入れなどはこれから調べるが楽しみである。

ところで、去年から今年にかけて沢山の白い布を見た。出会ったと言っても良い。数十年に一度の遷宮に誘われ伊勢に行った。内宮にも外宮にも約80cm巾の白い布が5枚横に縫われて垂れ、風に揺れている。そしてまさに神様がお渡りになる時、神様は白い布に囲われ(絹垣という)その先頭ではT字型の竿に垂れた白い布(行障)が静々と進む。几帳とそっくりであり、暖簾の形の原型とも見える。スーパー能や狂言でもあちこちで白い布が静かに活躍していた。

昨年末に北京の日本学研究センターにおける日本文化の紹介の一環で「暖簾が語る布の力」と題して暖簾は平和の布であることを紹介した。諸先生方、多数の院生も大変に興味を持ち懇親会で話が弾んだ。その後センターに寄贈した麻に藍染めの暖簾も気に入ってくれたことは嬉しい。ただ事情があってこの暖簾も目線より高く掛けざるを得なかった。かろうじて触れる事のできる高さになった。東京駅丸の内側の「KITTE」1階の和菓子屋にいたっては床から3メーターを超える上にある。銀座の店も然りである。サインとしての効果はあるがこれでは暖簾の魅力が半減どころではないと私は思う。残念である。暖簾はやはり出入口、又は通路にあって目線をゆるやかに遮り、腕や肩に触れることで結界が確かになる。

最近取材のたびに感じることがある。白地の暖簾は美しい。「色」は周囲の空間やしつらえに任せて暖簾はシンプルが良い。また、暖簾は人に正対することをある程度強いるところがある。布の質感や印・紋とともにその平面性が際立ち、一瞬その広い面を意識するが、布の隙間が暖簾をくぐることを促す。不思議な布である。平たい一枚の布が千年以上も暮らしの中に息づいている。暖簾は日本文化の担い手であり既に古くから日本人の記憶の遺伝子に根を張っていると言いたい。

文責:板東 正


020.心ひかれるものたち

「自然への尊敬の念を込めて、環境を汚さない、土に還る素材で、丁寧な手仕事をされた服や暮らしの道具など、自分にとって必要不可欠なものを作りたい。」ヨーガンレールの言葉である。 
神戸の元町、大丸近くにあったヨーガンレールの路面店をふらりとのぞくのが好きだった。今は大丸百貨店の中に入っている。 その路面店は、ヨーガンレール+ババグーリが展示されていて、森林浴をしてマイナスイオンを浴びたと時と同じような心地よさがあった。
ババグーリは、ヨーガンレール社による、天然素材、天然染料のみを使用した服と丁寧な手仕事によって作られた家具、食器、雑貨を扱うブランドである。 静かなたたずまいと力強い生命力にあふれた自然が感じられ、また自然とともに自分がいることを感じさせてくれる。そんな素敵な空気が満ちあふれ、豊かな気分に浸れた。

「途上国から世界に通用するブランドを作る。」を掲げているマザーハウス。 テレビ番組「情熱大陸」で紹介されていたので知っている人も多いと思う。マザーハウスはデザイナーの山口絵里子が大学時代にアジアの最貧国バングラデシュを訪れ、途上国の現実を知ったことから始まったそうだ。善意や自己犠牲の上に成り立つ「援助や寄付」という形ではなく、経済基盤をしっかりと持った持続的な協力の仕方。それは途上国にある資源を使って、先進国でも充分通用する商品をつくり輸出を促進する、という答えにたどりついたとのこと。
関西にはこのショップは少ないが、梅田のハービスエントでマザーハウスのバッグやスカーフに出会えた。シンプルなデザインで、素材の良さがよく表現されている。社会的意義がすばらしく、どこでどのようにして作られた商品なのかを販売員は熱意を持って説明してくれた。商品の成り立ちや作る人達に対しても、マザーハウスの全員が愛と誇りを持っているのがわかるし、ビジネスとしても成立させている。

低価格競争やネット通販の台頭などを経て、これからは心を軸にする考え方に重心を移すべきではないか。やはり大切なのは、思いや願いを込めた商品作りをすること。心に訴えかけていく商品作りをすること。真摯に作ることに向き合い、ものを通して思いをしっかり伝えることが大切なのだと改めて思う。
心ひかれるものには、その奥に込められた思いがあり、作り手と使い手が繋がっていると感じさせてくれるものがある。価格も大事、情報も大事だが、振り回される事なく心の目で見ていきたいものだ。

文責:神沢郁子


019.雑感

私がテキスタイルの仕事に関わって40年以上にもなりました。
芸術大学で染織を学び、30年間大学でプロダクトデザインコースのテキスタイルで教鞭をとりました。現在はアーティストとしてまた、クラフト的なプロセスの製品の製作やデザイン企画をしています。私の一見定まらないテキスタイル人生は,テキスタイルの「モノづくり」に惚れ込んだ証でしょうか。

私が育った時代は、現在のように何でも欲しいものが手に入る時代ではなかったので、欲しいものは創意工夫して創る事でした。特に繊維素材は暮らしの重要な要素であり、生活者がデザイナーとして、家事の一部として、しつらえをしたのです。素材自体が人間の身近にあるがゆえに、人間の感覚を触発してくれるものであり、物づくりの意欲をかき立てる媒質でした。
テキスタイルの仕事は奥深く、家事の一部からアートに至るまで様々なシーンで、日常に溶け込み、生活を支えていて「デザイン」という言葉の裏には沢山の歴史が感じられて、とても面白いと思っています。

長年アートの作品を発表してきましたが、私をテキスタイルの創作へと魅了させるものは、数えきれない表現技術や、質、色など素材の持つ多様性です。この多様性が創作にインスピレーションを与えてくれます。繊維素材を使って創作する面白さは、視覚的情報と触覚のイメージを同時に発想し表現できることにあります。
私の作品の構想は、自分の中にある自然に対する崇拝や驚異などの抽象的な自然観を通して、空気や光など「場」を満たす要素を表現したいと思ってきました。この発想は、人間・空間・自然の関係を再度認識させることにあります。

昨年10月−12月にイタリアの絹織物の産地で有名なコモにあるヴィラオルモ邸で開催された、アートテキスタイル展に招待され作品を展示しました。
この展覧会は1991年から毎年開催され、年々充実し2000年以降は、コンペ部門のミニアート展と15名の招待作家のアート展で構成されています。近年はイタリア国内やフランス等を巡回しています。

展示のお話をいただいてから新作を構想することになり、作品は展示のスペースを考え、今までになく大規模なものとなりました。多大な時間と労力のいる作品でしたが、このような大作を創る機会をいただき、ものづくりの心に火がつき、ワクワクする新しい経験の一つとなりました。

作品を展示する空間は、建物自体が芸術文化に力を注いだ貴族ヴィスコンティ家の元別荘である文化財で、フレスコ画と美しい吹きガラスでできたシャンデリアのある大きな1室を使うことになりました。文化財である建物に、様々な条件のアートワークの展示など、日本では考えられない事です。はじめはこのスペースに合わせ建物を傷つけない様にどのように展示の計画が出来るのか当惑したのですが、ほぼ私が指示した通りに展示のテクニシャンが、空間に吊るすとても複雑な私の作品を、物の見事に展示してくれました。そのプロフェッショナルな仕事ぶりにはとても感心させられました。ライティングも同様に、この様な職人技の集合がこの展覧会を支えているのです。

展覧会の企画は、イタリアのアーティストの家族が中心にARTE&ARTE協会として、キュレーターやこの地方のアートカウンシル協力のもと、イタリアやヨーロッパの企業からファンドを受け運営しています。日本におけるこのようなテキスタイルアート展の企画は、繊維企業の低迷とともにほとんど消え去っていきました。現在はイタリアも財政状況が厳しく資金集めに苦慮されておられますが、この規模の国際的な展覧会を毎年運営するには、並大抵の事ではなく、この企画に大変な情熱を傾け、芸術文化を支える心根が成し得た事だと深い感動を覚えました。

イタリアにはアートとアートを求める心が根づいていて、日常の暮らしの中に産業、芸術、文化、伝統がバランス良く溶け込み、成熟した文化の薫り高い国であることを再認識することになりました。

文責:奈良平 宣子


018.織物とビーズと文化

仕事の関係で、日本やアジアの古い織物や刺繍などを見る機会があります。 その美しさに圧倒させられる事や、柄に込められた意味、自然の色の豊かさなど、そして地域的な広がりも興味深く楽しい学習となります。

先日は、着物の背守り(せまもり)の魔よけ展がありました。 背縫いをしない幼子の産着などの一つ身の着物の背から魂が抜けたり、魔が入り込むとされ、それを防ぐために母が子の幸せを願い自ら作った背守り、最初は簡単な縫い目のものだったようですが、食べるのに困らないようにと稲穂、長生き出来るように亀や鶴、そして自然信仰である日本人の好む月や星の柄など、着物の美しさも素晴らしく、災厄を避け幸運をもたらす日本の素敵な飾り縫いでした。
そして背守りの施された布は、人の「生物としての生死」を護持する布を、魂を包む布(着物)として「文化的な生死」にも深く関わってきた事実を物語っていると書かれていました。 「生物としての生死」と「文化的な生死」との違いとは何なのだろうか、人間には生死にも文化的な事柄が強く反映されているのだと思われます。

そしてビーズ(ガラス)も私にとって心惹かれるものです。
『世界のビーズ、地域の織物』という本に、織物は「永続と幸せの願い」、ビーズは「不滅の願い」を込めた文化的なものとして、世界の地域の多くの織物、シルクロード貿易などで各地に存続するビーズの紹介がされています。

ここでいう文化も、なかなか解釈が難しい言葉です。
文化人、文化的景観、文化的な生活などと表現される言葉が多くありますが、しっくりこない気がします。 ウィキペディアによると、文化とは人間がその歴史において形成してきた慣習、営みの事の総称と記されています。
文化とは、そこに住み生活して歴史を積み重ねる事なのでしょうか。

ガラスは紀元前3000年から紀元前2000年に偶然発見され、織物に至っては明確な時期の記録は残っていないものの、紀元前8000年にはもう手織りされていた形跡も残っているようです。
それらは長い歴史的な営みの中で作られ、各地に流通し今日まで残った文化的なモノとしての、優れた、美しい、個性的なモノで、それらのモノにこれからも注目したいと思います。
そして先人達の願いは、織物やビーズに関わる仕事人がそれぞれの地域で伝承していく事かもしれません。

文責:岩岡利都子


017.織物とコンピューター

今週号の少年ジャンプに掲載されている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」に昔、駄菓子屋で「不自然な穴だらけの紙テープ」が売っていたということが載ってました。そしてその紙テープの正体はコンピューターのプログラムを記憶したテープだったという話です。
1960年代前後ののSF映画や漫画では、コンピューターに何か質問するとランダムに穴の空いた長い紙テープが出てきて、博士がそれを解読する映像がありましたが、それがこの紙テープでした。

思い起こせば、私も薄暗い駄菓子屋の片隅にそんな紙テープが売っていて、かんしゃく玉の巻玉に似ているけど、どうやって遊ぶものかわからなかったという記憶があります。
そしてこの紙テープの話から、「コンピューターは織機をヒントに作られた」という話を思い出しました。

日頃パソコンを使っても、パソコンがどんな仕組みで動いているかなど気にしていないと思いますし、知らなくても使えるのだからわざわざ理解する必要はありませんが、ジャガード織機の仕組みを知っているテキスタイル業界の方なら簡単に理解出来ますのでその話を紹介します。

ご存じの通り、ジャカード織機はパンチカード(紋紙)の穴の有無に従って上下する金属針とシャフトを連動させてシャフトを個別に上下させ、穴によって指示された経糸だけを引き上げて横糸を通すことで、カードのパターン通りの文様を織ることが出来ます。

コンピューターの原型でもパンチカードを使用しています。
代表的な機械は「タビュレーティングマシン」といわれる機械で、アメリカの国勢調査に用いられました。
パンチカードは丸い穴を12行24桁の格子状に空けられるようになっており、個人情報に対応する箇所に穴があけられてます。パンチカードを「タビュレーティングマシン」に入れるとカードの下にはその下にはパンチカードと同じように丸い穴を12行24桁の格子状に開けられてます。カードの上には穴の位置に対応したバネ付きの針金があります。
下の穴には水銀が入れてあり、パンチカードをセットした後その上からバネ付きの針金を押しつけます。
すると、穴の空いている位置では針金が水銀のプールに浸り、通電することで電気回路が形成されてその結果がカウンター(計数器)に送られるという仕組みになってます。
上記の説明ではイメージ出来なかったもしれませんが、日本では高速道路の通行権や駐車場の駐車券などでこのシステムを取り入れていたところがあったので、ランダムに穴の空いた紙のカードを覚えている人も多いと思います。

初期のコンピューターでは、パンチカードの代わりに自動パンチ機で穴をあけて、穴の有無で0,1の信号を記録する「鑽孔テープ」という紙テープが使われてました。ロール状の紙テープを使用する事によってパンチカードよりも複雑な計算(プログラム)が出来るようになりました。そして大量に出た使用済み「鑽孔テープ」がリサイクルとして駄菓子屋で売られていたのです。
現在のコンピューターでは「鑽孔テープ」は使われてませんが、基本的には同じ構造で「電気の有る無し」(もしくは電気が流れるか流れないか)でより複雑なプログラムを実行させてます。

コンピュータの先祖がジャガード織機だったことで、パソコンに苦手意識をもっている諸先輩方も少し親近感を持てたのではないでしょうか。

文責:角田善之


016.ドイツ北西部の町クレフェルト

Europa連合が主催するEU designを訪れた時のことだ。出展者のFremerさんはREMEMBER社のDesigner兼取締役とのこと。少し話しているうちにその会社がドイツのクレフェルトにあることが分かった。

クレフェルトは私がドイツ滞在中に通ったデザイン専門大学のある町だ。小じんまりとした町だが、お堀に囲まれたお城の傍にTextile Museum がある。素敵な場所である。あのエルメスの創業者ティエリー エルメスの出身地でもある。ここは絹の町だったため歴史的な布や服が所蔵されている。定期的な展覧会が企画されており、私も何度か訪れた事がある。また、Textile関連の蔵書も豊富で管理が行き届いている。また、Kaiser Wilhelm城は現代美術館として利用されていて採光を上手く取り入れた、とても気持ちのいい美術館である。Roy Richtensteinの初期の手描きの作品がこんな所で見られるのもEuropaの良い所だ。他にも森林の中にある現代美術館Haus Langeなど。

人口24万人の町でこんなに公立美術館があるのです。普段の生活のそばにアートや文化を感じられる所があり、自然に目に入ってくる。この国を心豊かな人々のいる国にしたいとうい意図が伝わってくる。

その、Fremerさんはドイツから遠く極東Asiaの日本に来て、ナーバスになりかけていたところ、出身地クレフェルトを知っている人に出会うとは、信じられないとドイツ語で捲し立て、私も嬉しくなった。 REMEMBER社の製品はすべて彼がdesignしているとのこと。ドイツでは良く見かけたDesignで雑誌などでもお馴染みだったが、さらにAsiaにも進出したいそうだ。  色が奇麗ではっきりしたDesignは私も大好きだと告げると、クレーフェルドに来たら是非寄ってくれと言って、記念写真まで撮られてしまった。

文責:宮嶋直子


015.「むじなも」と「武州藍」

埼玉県羽生の水族館に国の天然記念物、ムジナモが展示されていました。
モウセンゴケ科のムジナモ属でたった一種類しかない珍しい淡水の食虫植物です。
埼玉県羽生の三田ヶ谷の宝蔵寺沼が、全国唯一のムジナモ自生地として国の天然記念物に指定されています。
7月から9月にかけて日差しの強い日にまれに米粒くらいの白い花を咲かせます。
花はほんの1時間ほどで閉じてしまい水中で種を作ります。 めったに見られないので、幻の花と言われています。

藍染は、安房国(徳島県)の吉野川中、下流域が一般的に知られていますが、
江戸後期、 武州羽生の青縞(木綿糸を藍で染めた織物)は農家の副業として盛んに行われていました。
田山花袋の小説「田舎教師」にも描かれた羽生の青縞。
「四里の道は長かった。 その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。」
「・・・発上(発戸)にでる。靑縞を織る機の音がそこにも聞こえてくる。」

明治時代には靑縞を扱う店は17軒、紺屋は300軒余りありましたが、今では市内に 数件に・・・・・。
羽生の藍染は、武州正藍染として伝統を受け継げるとともに、新たな製品作りに挑戦しています。
10年前に武州正藍染の製品企画を依頼され、題材探しに羽生地域を探索した時に、
私と「むじなも」と「武州藍」との出会いの始まりです。

肌にやさしい、人にやさしい、藍を愛し、   
 藍との出会い、  その喜ばしい時・・・

皆様も身近をぶらぶらし、新しい出会いと喜ばしい時に触れて見て下さい。

文責:齋藤憲夫


014.化学繊維の豆知識/化学繊維の歴史

  「婦人が欲しがる軽くてきらきら光る織物を、夫たちは同じ重さの金を支払って買った。それは水のようにさらさらと流れ落ち女の身体を包んだ。」(オーストリアの文化史家ヘルマン・シュライバー「絹の文化史」の冒頭部分)

 このように絹は、その繊維の持つ顕著な光沢感と軽やかさや、優雅な触感、独特な絹鳴りの音により、人々の憧れの素材であった。絹は、非常に魅惑的な繊維であり、ヨーロッパでは産せず、シルクロードを通って遙か遠い中国より渡来するため羨望の的となり熱望され、同じ重さの金と取引されたほど高価で貴重で、人気の高い、繊維の王様とも呼べる繊維であった。

 このような美しさを持つ繊維を、科学者は人工的に作りだすことを夢に見、様々な試みが行われていた。

初めての化学繊維の誕生は絹に似せた化学繊維(レーヨンの種類)の誕生であった。

化学繊維はコスト的に天然繊維よりも安く作ることが可能な場合が多いため、天然繊維に代替するべく、天然繊維を目指して開発改良が行われるようになることが多かった。

次に起きた大きな事実としては、初めての合成繊維であるナイロン繊維の発表があり、このナイロンは天然繊維とは比べ物にならないほどの強力を持った繊維であった。ナイロンは強さとともに光沢も持ち合わせていたため、絹の独壇場であった靴下、ストッキング市場を奪い取り、さらには今までは強力に優れるという特徴により残っていた麻繊維を駆逐してしまうことになったのである。

その後、アクリル、ポリエステル繊維が順次 開発、商品化される。アクリルはかさ高く保温性のあるウールによく似た繊維として発展。ポリエステルは吸湿性、外観向上などが行われるようになるとオールマイティな性能で他者よりも特に発展を遂げるようになっていく。

 過去の化学繊維は、既存の天然繊維に対しての代替繊維という印象の強いものが多かった。是に対して、これらのあとに開発されたポリウレタン繊維は多少違った印象を受けるものである。ポリウレタン繊維は繊維自体に収縮性をもたせた素材であり、この繊維を使用することで、今までの編みや織り組織、或いは天然ゴムなどを使った場合と比べて、高度な性能を持つ物を作り得ることが可能となった特筆すべき特徴を持った繊維が開発されたのです。またこの後、新しい質感を持った新合繊と総称される繊維が流行った時代もありました。

 化学繊維の誕生から約130年、現在はスーパー繊維などとも呼ばれる高機能、高性能繊維も開発されています。最初は天然繊維を目指して作られてきた化学繊維ですが、今日では天然繊維の性能や質感を超える繊維も続々開発されてきています。現在のスーパー繊維は産業資材としての使用が主ですが、美的価値を持ったスーパー繊維を纏う時代も今後来るのでしょうか。楽しみにしましょう。

文責:古関崇尚


013.秩父銘仙に癒されて

  原稿依頼の電話を受けたのが、12月10日。19〜20歳代にかけていっしょにテキスタイルを学んだ友人2人で、秩父鉄道のぶしゅうひのに一泊し、秩父銘仙館を尋ねる、車中のことでした。これも産地との縁を思い書かせていただきました。秩父は以前、日本テキスタイルデザイン協会・交流部会で産地見学会を催しました。私事ですが、国際見本市に18年出展出来たのも、仕事が続けられるのも、モノづくりへの思いの原点がある産地のお陰が大きい。 秩父銘仙は紬などに属する大衆向け絹織物の一種で、古くから埼玉県秩父一帯で生産されていた。銘仙の産地としては群馬県伊勢崎いせさきめいせん・栃木県足利あしかがめいせん・東京都八王子・村山・埼玉県飯能・所沢・群馬県館林・桐生等がある。

 明治〜大正〜昭和と織機の変化と共に糸づかいも変化し、絣染・絞染・捺染絣・ほぐし捺染。縮加工等と柄表現もいろいろと工夫されてきて種類も多い。とくに経糸に型紙を使って模様をつけて織り上げるほぐし捺染はプリントのパターンと絣のレトロな雰囲気に心が癒されるのでしょうか。 日本の繊維産地をとりまく現状はきびしいが、デザインや商品の見せ方、流通や販売の仕方を変えることで売り上げを増せる場合が多いと思う。 質の高いデザインとの出会いが本当にいいモノを生み出すのだと思う。 今、ニッポン全国のスグレモノ、おいしいモノを提案する売り場が楽しい。

文責:中山陽子


012.「時代を楽しみなさい…」

 去る、10月12、13日に通夜/告別式が行われた。
「両国のふみ叔母さん」が103歳で亡くなり大往生であった。生前、叔母は皆さんに
「人生は1度だけ、楽しんで生きなさい。」が口癖であった。
日本酒と詩吟を愛した人でもあった。私の名前、文雄も叔母さんに頂いたもの・・・
生前好んだ吟でお通夜の席で歌われた「酒を勧む」である。
「君に勧む黄金の盃  波々と酌がしておくれ  花発けば雨風しげく  人生は唯別離のみ」
明治・大正・昭和・平成を生きた。

私は、予備校時代と卒業して1年程、お世話になった。恩返しも出来ないままの お別れであった。
四十九日の法要が、11月24日行われ叔母さんの旅も終わり仏様に・・・
叔母さんと関わった時間が、自身の仕事の上で大きな影響があったと思います。
テキスタイル業界に進んで今年でもう38年目に、長いこと第一線でやってこられたのも
叔母さんをはじめ関係者のお陰だと思っております。

もうすぐ40年になるテキスタイル人生、振り返ってみるのも面白いのではないでしょうか。
多摩美の教授でもあった、大西健次郎先生のデザイン室に入ったのがテキスタイルデザインを始めるきっかけとなり、
デザイン室閉鎖にともない2年足らずでフリーの世界へ。
今思うと大きな賭けであり冒険でもあった。
当時は、無我夢中であり考えている余裕すら なかったような気がする。
学生時代は、1973年第一次オイルショックを経験、そして1991年バブル崩壊。
2000年のミレニアムは、何か起こるのではないかと真剣に考えた。
2008年リーマンショックを経験し2011年東北大震災と。
言えることは、「大きな時代の変化は、ライフスタイルを替えデザインに大きな影響を与える。」
と言うことを身をもって痛感した。
もう一つ思うことは、1985年頃から始まったSPAである。
仕事先である大手家具専門店で実際の業務に携わって思ったことは、
問屋の衰退がこれから加速的進行するだろうと。
実際、「問屋の衰退」は、マーケットと生産現場に影響し、我々のデザイン活動にも大きな 影響を与えた。
時代は社会全体が変革の時代へと入っている。
不安な気持ちになる。

そんな時、「両国の叔母さん」の言葉を何時も思い出す。
「人生は1度だけ、楽しんで生きなさい」と・・・
気持ちの大きな人である.

文責:今野 文雄


011.必要と必然

 中沢新一 著「アースダイバー」をご存知でしょうか?この本は縄文時代の東京の地形をひもとくと、現在の土地の意味がわかってくる、たとえば、なぜ皇居はここなのか、新宿、渋谷はなぜ盛り場になっているのか、東京タワーはなぜここに建てられたのか、偶然ではなくそこには必然的に今の東京が存在していることが、事細かに書かれていて、東京に興味がある方にはとてもおすすめな、一冊です。

 この本は2005年に発行されましたが、この本はわたしに、考え方の一つの方向性を示してくれました。それは今ものがあふれすぎているその物が本当に人間に必要なのか?おそらく必然的にいらない物は淘汰されていくことを真剣に考えなければいけない時代だということ。3月11日はある意味そのきっかけを作ってくれました。安全と言われた、原子力、きれいになると言われた化粧品、そして最近では薬まで信用なりません。 食品についても添加物はもちろんだめですが、大豆や牛乳も?と言われています。いま若い人たちにスーパフードが大人気なのもうなずけます。

 そして、私たちが関係している、繊維はどうでしょうか?高機能化学繊維も必要な人もいるかもしれませんが、人間に本当に必要な繊維をつきつめ、研究していくことが、これからの繊維のあり方ではないでしょうか?綿・麻・絹の可能性をもっと突き詰めてほしいと思いますが、どうでしょうか? 最近のコマーシャルや映画を見ていると、最新のものとレトロなものが同居しています。最新の物を使っていた、コマーシャルでは古い家具や音楽、ハリウッド映画でも最新の車と60年代の車のカーチェイスのシーンや近未来の光景にも60年代の車が使われています、これは一口にレトロブームというには違う気がします。おそらく昔のものをリスペクトするとともに、必要と必然を考えて、今に活かせというメッセージではないでしょうか?このメッセージはこれからのデザイン、商品開発やトレンドのヒントになることを願います。

文責:豊方 康人


010.さて‥‥と「日本の伝統産業と向かいあって」
    ‥‥何が出来るか?

 先日、千葉からは、えらく遠く感じた日本海に面した丹後ちりめん産地に行ってきました。 この産地の特徴を生かしつつ、時代の潮流に沿った商品を開発する命題を頭に入れながら 帰ってまいりました。最近、松竹の歌舞伎の商品企画や、織物、染色、陶磁器、漆器など、 約13種、全国215地域にある工芸品を扱っている伝統工芸の青山スクエア、来年早々、 海外での日本フェアに出展する企画内容のプラン出しなど、伝統三昧の企画に囲まれてい る状況になっております。

 私も来年、70歳を迎える年となり、うれし、はずかし、‥‥ 伝統工芸品と向かい合うに相応しいお年頃となったようです。伝統工芸品は繊維関係に限 らずどの分野に於いても、厳しい状況下となっていることは衆知の通りですが、まァ−国 内外の展示会だけの、提案材料の企画にならぬよう、国内外の市場で通用すべき企画商品をしなけれりば‥‥年寄りには、心身に悪そうなドエライ内容デスワ!‥‥‥ 本日も 全国伝統工芸品組合の理事に気勢の良い、大風呂敷を広げてまいりましたが、この年になると、結構聞いてくれる有り難い状況になっていることに感謝です。 来年の3月には、企画が取り上げられているか? 没になっているか? 成功していましたら,勝手に続きを投稿。没企画でしたら、これで幕引き。昼寝付きで海外の展示会の評価に向かって、企画立案 進め!進め!‥‥ですわ。

文責:佐口 昌司


009.新しい「LIFESTYLE」をテキスタイルデザインで創り出そう!

空間に身を置いた時に、何か居心地の良さを感じることがあります。

それはテキスタイルデザインがデザインの原点(原初)であるため、視覚と触覚を通して伝ってくる居心地の良さを感じるからです。 テキスタイルが空間に与える影響は、素材のやわらかさと意匠の美しさから快適性を醸し出しています。 業界紙のインテリアビジネスニュースに、「ファッションとインテリアのキワが面白い」と言うコラムが連載されています。デザインの領域が混ざり合う中で生活者の満足感や充実感が満たされるものとことを取材してる記事です。

これまでのビジネス成功体験によって旧来の思考から抜け出せない人が多くいます。デフレからの脱却を価格面だけで捉えることが誤ってることは明白です。ものに価値を付加しなければ単なるい消耗品になってしまいます。売りっぱなしのもの売りがまだまだ多くいるのが現実です。

インテリア事業を生業とする者を含めて、住宅の供給側にどこまで「ユーザーの暮らしを豊かに出来るのか?!」という意識を持って仕事をしてる人がどれだけいるのか市場に問われています。 ボーダレス化が進む社会で住み手が作り手にもなる今、その結果として生活デザイン力を手にしたユーザーが益々増えて来ています。 それは住み手に対しての提案方法を変えていかなければいけない時が来たのです。 ものに快適性と安心や愛着を感じさせることが益々求められています。

ファッションとインテリアの領域が混ざり合いライフスタイルとしての住空間が生まれる時の悦び(気に入ったサーフェイスに包まれる時の悦び)を提供して下さい。 美しいものと環境に優しいものとの調和が図られた居住空間に住むことをユーザーは求めています。インテリアビジネスにも不変的な原理であるユーザーの満足度(CS)を満たすことが求められています。デフレの脱却を図らなけらばいけない課題です。 テキスタイルの商品化には生活者の歓びを満たす新しいデザインを創出をさせることを考えていく必要あります。 テキスタイルデザインで生活者に悦びの住空間を感じてもらえることが求められています。 テキスタイルデザインの力が新しい「LIFESTYLE」を創り出す時代が今来ています。

文責:東郷 清次郎


008.「テキスタイルフェスタを終えて」

「客の心と アラビヤ文字は 読んでみたいが 読み切れぬ」

下手な都々逸で披瀝したのは、去る4月27、28両日に開催された「TDAテキスタイル フェスタ」を終えての心境。ただしこれは嘆き節ではなく2日間にわたるエキサイティングな自作品対面販売」のゾクゾクするような感覚を表現したかったのです。

お客さんと直に会話し、その満足と不満足を直に体感する事は 予想外の展開の連続でありただ数字のデータを眺めたり、百貨店などの売り場を巡る市場調査とはひと味もふた味も違う新鮮な体験でした。フラっと立寄られた 見ず知らずの方が自作の商品を手に取りお買い上げ頂いた…そんな体験は理屈や金額を抜きにして嬉しいものです。小規模とはいえビジネスなので甘えは禁物ですが、このようにビジネスの最中であっても素直に嬉しい感情を沸き上がらせる体験をする事は自身のメンタル的にも非常に良い事であったと思っています。ともすれば日頃はビジネスのために感情をコントロールし過ぎていますから。誰もが一度は日曜マーケットなどで店主を体験してみる…そんな事がストレス多き現代人にとって結構な心身の健康法になるのでは?と、そんな事も思ってみました。

転じて客層を見ると 家族連れ、カップル、シルバー世代など様々で 今までTDAがやってきたB to Bの催し物とはまるで違う。休日の観光地に遊びに来たフツーの人々が相手です。だから私たちは告知で「テキスタイルデザイン協会」の「テキスタイルデザイン」とは何か…の説明から始めたのです。そしてそれは初心に返って自分たちの社会的立場を再確認する良い機会でもありました。もっとも「休日の観光地」としての「横浜赤レンガ倉庫」の絶大な集客力には大きく助けられましたが…

物流商流が複雑多様化して誰もが何かの歯車にならざるを得ない現代においてだからこそ売り手と買い手が対等の立場で交流出来るこの手の「フェスタ」と名乗る催事は今や全国で多数開催されており、今後も人気を博し続けると思います。それゆえに「フェスタ」同士の差別化も必須であり、企画者としてはどういった「イマだけ」「ココだけ」を提供出来るのか…といった事をより明確にビジュアライズしてゆく必要性を強く感じました。そして…「モノをつくる人」が「場をつくる人」へと積極的にシフトする事で「安ければ良い」に流れたモノとヒトの関係が少しずつ変わってゆくものと信じたいです。

文責:怡田勉


007.ときは「豊かさのデザイン」の時代へ

 テキスタイルに限らず人の感性のメガトレンドとして、世の中の流れをみてここ最近思うのは、ある時点から大きく方向性が変わったな…ということである。1990年あたりまでのキーワードは、シンプル、合理的、理論的であり、都会的なシャープなセンスが求められ、デザインにおいても何となく少しそぎ落としたすっきり感が感じられるものが心地よいと感じられた。音楽でいうと、例えばイエローマジックオーケストラのような電子音からなるスマートな音楽。都会的なイメージが溢れていた。町では、マクドナルドのような全国どこへ行っても同じサービスが受けられる事が良い事であり、画一化がキーポイントとなった。

 しかし、ここ数年を考えてみても感性の流れは全く逆の方向へ動き始めている。例えば、ナチュラルなもの、人間くさいもの、意外性のあるもの、情緒的のもの。そんな複雑で非合理的なものが逆に心理的快をもたらしている。ホテルのコンシェルジュのようなあなた様用のサービスであったり、本来面倒くさいと思われた事が満たされた際に、満足度が高まったりする。また、雑誌などでは、田舎の良さが注目され、テレビでは「ひとり農業」 のような番組まで登場している。音楽でいうなら、沖縄のこぶしで唄うような島唄が流行ったり、キャリーパミュパミュのような誰もマネできない個性的なものが認められたりする。

それではデザインにおいてはどうだろうか…。私の携わるプリントデザインにおいてもハンドライティングなラインや素朴なデッサン調の味わいのあるもの、経年変化が感じられるものなどが、人気が出てきている。10年くらい前はやや野暮ったいと思われたはずのアナログなイメージのものである。以前読んだ本に、数十年単位で感性においてのメガトレンドに振り子の法則があるとあった。どうやら大きな振り子が反対方向に折り返しているようだ。これからの方向は、この流れから考えると「豊かさのデザイン」の時代に向かっているのではないかと思う。以前のミニマムリズムから精神的にもリッチな華燭やアートの方向に動き始めた。どの分野のモノ創りにおいても、この感性のメガトレンドは、顧客の満足度を高めるという意味で意識する必要があると考える。そう考える事自体もまさに「豊かさのデザイン」的マーケティングなのではないだろうか。

文責:矢澤寿々子


006.「テキスタイルの3次元デジタル化に期待」

私は住空間をソフトな気持ちにするテキスタイルの効果が好きです。 そして、テキスタイルを顧客に勧める時または顧客の好みを確認してもらう時にはスワッチ見本(現物)を見て頂き決定します。 テキスタイルは色・柄・素材・織り組織の確認をするには現物を見て頂くことが大切です。

現在、多額の経費を掛けた商品見本帳という販促媒体が存在するのもこの為です。 デジタル通信技術でデーター化によってテキスタイルの確認が出来ないのか、その研究が感性工学の中で進められています。

私が働き出した時、先輩からは織物を確認するには触ること、触感が大切な要素であることを教わりました。触感から捉える素材と組織の判断は、個人の経験値でしか比較検討することが出来ません。触覚(3次元)は視覚(2次元)と共に重要な判断基準なのです。

ビニールクロス(壁装)による擬似空間の造作では、住空間をソフトな雰囲気にするテキスタイルデザイン(布目柄)が売れ筋です。まさに住空間をソフトな気持ちにするテキスタイルの効果です。そして、壁紙施工ではジョイント面が判り難いデザインにすることや大きな平面に柄癖が出ないデザインをすることなど工夫が施されています。特に布目はベーシックなので何ゲージで何番手の糸で地模様のエンボス(凹凸)を作成するか各社規格基準を作り生産に活かしています。

2次元ではなく3次元で認識できる情報伝達技術、感性に根ざしたテキスタイルデザインを伝える方法が感性工学の中で研究されています。 テキスタイルを3次元コピー機の活用で伝える。あるいは触覚をデジタル化(振動・温度・圧力の3要素を数値化)にして伝える技術など2次元(視覚)の世界に3次元(触感)の世界をプラスして情報を伝達する技術が進化発展しています。 見本帳作成や試作品などこのデジタル化によってより時間と経費が削減されることに期待しています。

文責:東郷清次郎


005.「優しいアジテーション」

布の意味は解字では、平らに伸ばしてぴたりと表面に付くぬののことである。

単に布と言えば本来は麻や葛で織ったもので後世には綿布も入る。絹は区別して布帛(しろぎぬ)と言っていた。布を使用した字をみると、調布(地名にもある)とは、調として官に納める手織りの布のことである。希望の希はメ二つで(まじわる)+巾(ぬの)で、隙間なく細かく交差して織った布で、隙間を通して何かを求めるの意である。

原点に戻ると新たな発見がある。布はファッションやインテリアの素材である。あらゆる暮らしの場に使用されている。例えば世界中の国旗、ブータンやバリ島でみられる長い竿に吊り下げられた宗教的な布、相撲や歌舞伎興行の幟、大漁の漁船が立てる大漁旗など。それぞれが暮らしに密着していて固有の意味と象徴が託されている。繊維(テキスタイル)の分類で捕らえると、それが宇宙服の開発であったり、ビロード素材が液晶パネルに不可欠な素材であったり、と思いも寄らない所で繊維が活躍している。長引く不況これからの日本や世界の動向が予見できない状況だがこの大きな転機をチャンスとして充分良い方向にもっていこう。 専門家やマスコミや世間など喧しいが程々に聞いといて、いま大事なことは自分自身で考えることだと私は思う。

職人やデザイン界で働く人に実際会ってみると、その感動にリアリティがある。これは何を意味するのだろうか。それは取り組む志(こころざし)の姿勢にあると思う。保守的なことを言っているつもりはないが伝統と変革は世の常である。もっと自分の周りをみよう、人と接してみよう、人はどう暮らしていったらよいのだろう、人の悲しみ喜びとはなんなのか。評論家にならずに、まちを見よう、路地裏を歩こう、自然の力を感じよう、日頃の生活を楽しくしよう、おもしろくしよう。

1999年に三宅一生が発表した、一枚の布。布が暮らしを変え、まちを変え、そして世界を変えた。

喜び感動とはなにかを考えよう。布を使ったファッションがアートになる。日本人の培った素晴らしい考え、素晴らしいものはわたしたちの財産である。日本人には優れたデザイン能力もある。様々に視点を変えて世の中のありさまをぐっと掴んでみてみよう。苦しいけれどそれを超える楽しさをみつけ咀嚼して栄養にしてしまえ!やることはまだまだ沢山ある。私は今あの元気色の大漁旗を見に行く計画をたてている。

文責:成島 喬


004.「素材の色」

この頃、日本人のユニークさについて考えさせられることが多い。
どうやら日本人は、世界で一番ユニークであり、世界の人種を二つに分けるとすれば、日本人とそれ以外に分けられるほどの存在であるらしい。
日本人は、世界的に孤立した遺伝子の持ち主と言われる。近親者はチベット、中近東あたりの人種で、中国、韓国のDNAとは大きく隔たっている。そして、世界で一番うつ病になりやすい遺伝子タイプでもある。ただ、この遺伝子タイプは、ネガティブな感情に気付きやすいため、相手が感情を害したことが察知できるそうだ。そのため、世界で一番KY(空気が読める)な人種になっている。これは、稲作と言う高度な集約農業を2000年以上続けたおかげで、この手のタイプに淘汰・集約されたらしい。困ったもの?である。

近代化を実現した国家の中で、2000年も固有の文化を維持し続けているのも日本だけだろう。2000年の歴史を持つ日本語に比べて、フランス人の大多数が統一されたフランス語をしゃべるようになったのはフランス革命の後だと言われる。
近代化の波は、唯一神の宗教と狩猟・牧畜文化によってもたらされるのが世界の歴史である。ただ日本だけが、アニミズム的な八百万の神々と自然宗教(自然観?)を持ち続けたまま近代国家を構築してしまった。今や、世界を席巻するCOOL-JAPANのコンテンツは、世界で希有のものである――ということは「ガラパゴス」でもある。

このような文化の下では、日本に色彩学が生まれなかったことにも納得がゆく。欧州文化の土台であるギリシア、キリスト教文化の本質追求の姿勢は、モノから色を取りだして、研究し、体系化することを可能にしたが、自然をそのまま受け入れ、有る色に精神を投影し、色の声を聞こうとする日本では、素材の色をそのまま受け入れるしかなかった。かくして、日本では素材の色としての良し悪しを問い、自然そのままの配色を取り入れることで、季節感を重んじ、うつろいを肯定する繊細な色彩感覚を育てたが、その一方で、色を体系でとらえ、配色を科学的、合理的に組み立てる思想も手段も持たなかった。
欧米の色彩計画にのっとった都市景観や、イタリア人の、それも地方の小さな村に暮らす老人たちの装いや暮らしに反映される見事な色使いを見ると羨ましい気もするが、一方で、素材感にこだわり、繊細で微妙な色使いの三昧境に浸れる楽しさも悪いものではないように思う。

文責:山内誠


003.「もの思い」

前売りに関わるお仕事を始め、あっと言う間に10数年が経ってしまった。 この頃、消費すると言う事に関して、今までには感じた事のない大きな変化の波が来ていると痛感している。

価値のあるショップになるには、お店の雰囲気・接客・展示・商品・広報・価格など多くの要素のバランスが取れてこそ具現化すると言えるが、今はもはやそれだけでは、なかなか購入して貰えないのが現実であると思う。

今、話題に上るショップは、環境、社会貢献・ライブ感・クリエイション・自然との関わり・参加型…など、「自分と物との間に何かしらの関係性が生まれる事」がポイントになっている様に感じる。 自分と物の2次元の関係から、自分と物と+αの3次元的で、もっと立体的な関係性を求められている様に思う。

消費成熟社会に於いては、単に消費するだけでは、満たされない何かがあるのだろう。その+αを何に求めるのか?が、個人の感性によって異なるのだと思う。

テキスタイル分野では、「デザイン」と、「物」と「テクノロジー」の3次元的な関係性を、今らしくクリエーション出来たら、面白くなるのではないかと思う。

日本のテキスタイルの力を改めて見直し、今までの視点を変える事で、世界に発信して行けるオペレーションを、構築出来る余力がある事を信じたい。

文責:大場麻美


002.「獺の祭」

環境省が絶滅の恐れのある野生生物を調べた「レッドリスト」を見直し、これまでは「絶滅危惧種」に指定されていた日本カワウソを「絶滅種」に指定すると発表したのは8月の終わりだった。1979年高知県で目撃されたのを最後に生息の情報が無いことから、絶滅したものと判断された。開発による生息地の喪失や環境の変化が大きな原因と考えられている。

獺に心痛めるのも、日本の繊維産業の根幹にかかわる懸念を最近聞く機会があったからだ。西陣で西陣織を支えてきた用具が次々と姿を消しつつあるそうだ。1997年に唯一人となっていた竹製「筬」の製作者が亡くなり、京都における「筬」の供給が出来なくなった。手織りの織機に欠かせない「杼」の作り手も最後の一人になったそうである。京友禅では糊や染料を塗る「刷毛」の補充が困難になってきているらしい。今道具の調達が産業の存続を脅かしかねない。

国内産業の不振から、海外進出が最後の手段とばかり、企業の海外進出熱はいまだ衰えていない。このたびばかりはさすが中国への進出は躊躇せざるを得ないが、ベトナムを始め東アジア人気は高い。最近ではミャンマーへの進出が注目されている。このままでは国内の繊維産地はますます縮小に拍車がかかってしまう。ここはなんとしても繊維産業の再興を図らねばならない。それには関係者が一丸となって智恵を絞らなければならない。

獺は魚を取っても直ぐには食わず、草むらに陳列しておく習性があるそうで、ご馳走が辺りにいっぱいあることから「獺の祭」といわれている。中国の大詩人李商隠は自らを「獺祭魚」と称し、獺のように様々な書物を自分の周辺に広げながら作詩に励んだと伝えられている。日本では正岡子規が「獺祭書屋主人」を俳号として用い、乱雑に散らかした本や書類の中で俳句を作り続けた。繊維産業が絶滅危惧種にならぬためには、周りにありったけの優れた智恵と、様々なところから集めた情報を並べて熟考した後、強い意志で未来志向の施策に挑戦していくしかない。

文責:鈴木洋行


001.「もの思い-1」

ファストファッションの対極にスローファッション、ラグジュアリーブランドの対極にSPA(SPAファストファッション)・・・。二項対立で物事を見るつもりはないが、どうもこの10年余りの間は廉価良品や高感度低価格という価値基準が主流を占めているようだ。他にも関心を引くファッションやビジネススタイルもあるのだが、大きなムーブメントには至っていない。

パリコレやミラノコレクションのデザイナーによるモードもファッションや消費の主流に与える影響力が低下してしまっている。また大手アパレルのナショナルブランドも健闘はしているようだが、ターゲットが年令的に高目であることもあって話題に昇ることも少なくなってしまった。

日本のファッションは若者中心に動いているという、欧米とは異なる特徴を持っていることからガールズコレクション系のファッションが多くを占めるようになって久しく感じてしまう。

ファッションビジネスの主流が、SPAに象徴される生産・販売の拡大と市場ニーズにマッチしたもの作り開発・流通開発という「効率化」にあるということは、マーケット全体のファッション成熟度をボトムアップさせて行くには重要なことであるが、その先にあるモードの育成・発信にはつながらない。多くの人に支持されてこそファッション(流行)として認知されるのだが、このような現状からは次の「個のアイデンティティ」の軸は生まれて来難い。

少しマーケットが変るがソニーやシャープ、パナソニックの家電が世界市場で韓国メーカーなどに圧倒されてきている。性能的には同等もしくは日本以上で価格は安い、何よりデザインのかっこ良さで日本商品は負かされているとの事。今の日本のもの作り、技術力は負けていないのに発想の点で何かが足りていないと感じざるを得ない。

 二項対立のポジショニングから第3極、第4極の立ち位置の模索と確立を目指した発想の切り替えと、ジャパンビジネスの新たな目標モデルの構築が急がれる。

文責:寺井洋介